遊芸人による娯楽興行

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 現在のようにテレビや映画、その他さまざまな娯楽が一般に普及してなかったころ、越谷の人びとはどのような方法で娯楽を取り入れていたであろうか。一般的には村単位あるいは集落単位で生活共同体を形成していた当時の村びとは、村単位・集落単位で共同の娯楽を求めていたのが普通であった。

 たとえば念仏講・観音講といった信仰集団や、嫁講・若者講といった年齢集団による催し物、あるいは神社仏閣の祭礼、それにともなう神楽や相撲、村芝居などがあった。このほか特定の遊芸人を招いて芝居や手踊り、操り人形芝居などの興行を催すこともあった。このうち明治から大正期における遊芸人を招いての芝居や手踊り興行を、現越谷市桜井地区に残された役場史料からこれを窺ってみよう。

 まず明治十八年十二月七日平方村の白鳥三吉(敬称略)が平方の鎮守女帝神社境内で、東京市本所区の沢村民吉ほか三名を招いて奉納芝居を興行している。次いで同十九年二月二十日、大里村の下田長次郎が神田区鍋町の阪東福三ほか一名を招き自宅で手踊りを興行、同十九年四月十五日、大泊村の高崎はるが観音堂境内で神田区鍋町阪東勝寿ほか二名を招き観音堂奉納手踊りを興行。

 同十九年十月二十八日大泊村の関根仲次郎が、神田区鍋町の阪東勝寿ほか子供連を招き同村香取神社境内で奉納手踊り興行。同十九年十二月二十日平方村の飯山竹次郎が、浅草区南清島町の沢村仲蔵ほか三名を招き、自宅において八幡神社の奉納手踊り興行。同二十年十一月三十日下間久里村の松崎吉蔵が、浅草区清島町の本多八十八ほか二名を招き鹿島神社境内での奉納手踊り興行。同二十一年四月十日上間久里村の吉岡源太郎が、北埼玉郡新郷村須永馬之助を招き香取神社での奉納人形芝居興行。

 同二十六年五月十二日、三室村の矢部繁太郎が大泊の安国寺境内で手踊りを興行、このときの木戸銭は大人一銭五厘、子供が一銭であった。同三十四年一月十五日上間久里の池沢秋蔵が、北足立郡土合村高野銀蔵ほか二名を招いての二日間にわたる遊芸人形芝居興行、このときの木戸銭は二銭九厘。同三十四年十月二十三日、平方の森田新四郎が俳優森脇勘蔵ほか四名を招き稲荷神社境内での芝居興行、このときは祭礼につきその費用は部落会で負担し木戸銭は徴収しなかった。

 次いで同三十六年一月一日、上間久里の池沢秋蔵が下谷区下谷町の飯塚左仲ほか二名を招いての演劇興行、このときの木戸銭は三銭。そして同四十一年一月九日には大里の時田藤太郎が浅草区の活動写真技手、青木秀太郎を二日にわたって招き、自宅構内で活動写真を興行、このときの木戸銭は大人五銭、小人三銭であった。

 また大正期に入ると活動写真とともに演劇興行が盛んになったようで、大正元年十月二十三日には、平方の押田由一が上間久里の森富源内ほか四名を招き自宅構内での演劇興行、木戸銭は大人六銭、小人四銭。同二年十月二十日には平方の厚沢忠四郎が小石川区大門町の市川三好ほか四名を招いての演劇興行、木戸銭は大人六銭小人三銭、ほかに特別席料が大人五銭小人二銭であった。この市川三好の演劇は同年十一月十五日にも平方の小早川忠次郎宅で二日間にわたって興行されている。これら演劇の催し物は不明なものが多いが、仮名手本忠臣蔵がよく演じられていたようである。

 ちなみに桜井地区「遊芸稼人」の起廃業届によると、当時越谷地元の芸人には船渡村の関根房太郎、武里村の飯山仙太郎、上間久里の森富源内などがいて演劇や「遊芸太々神楽」を演じていたことが知れる。こうして明治から大正期にかけては旅芸人による小屋掛けの娯楽興行が盛んであったが、越谷の地に、はじめて常設の劇場が出現したのは大正十四年一月一日のことであった。大沢一丁目の「東武劇場」がそれで、二階建一〇〇〇人を収容できた。これも映画が進出するにしたがい昭和十二年から映画館に改められた。

旅役者による興行芝居