越ヶ谷宿の瞽女(ゴゼ)

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 テレビやラジオが普及しなかった頃には、芝居や手踊りなど遊芸人による小屋掛け興行が盛んであった(前項参照)。このほか万歳や浪花節語り、よかよか飴屋などが村々を訪れ人びとを喜ばせたが、それらにまじり三味線を携え、二、三人で連れだった「ゴゼノボウ」が村々を訪れた。

 ゴゼとは瞽女と書き、盲目の女旅芸人を指した。とくに江戸時代はゴゼの遍歴は盛んで、多くの村々にはゴゼを泊める特定のゴゼ宿が設けられていた。このゴゼ宿の多くは富裕な農家がこれに宛てられていたが、例年「ゴゼ宿」の経費は少ない年で銭三貫文、多い年で銭九貫文が村入用費(村費)から支出されており、村びとはゴゼの来訪を楽しみに待っていたことが知れる(葛飾区一之江田島家文書)。

 昭和三十五年のこと、民謡研究家竹内勉氏が、東京都足立区に住む九〇歳の老ゴゼから千住節・くどき節・上総甚句・蚕くどきなど数多くの民謡を採録することができたが、このとき老ゴゼが大事に所持していたゴゼの「縁起書」一巻の奥書から、このゴゼは実は武蔵国埼玉郡越ヶ谷宿の榎本ふじというゴゼであることがわかった。奥書には明治十二年十月一日の日付で、ふじのほか同宿ちか、同宿いとの署名があるのでこの三名が一組になって巡業していたとみられる。

 縁起書の内容は全国ほぼ共通であるといわれるが、これにはゴゼの発祥縁起と掟(おきて)が記されている。参考までにその要訳を示すと、まず表題には「人皇五十二代嵯峨天皇第四の王女相模の姫君瞽女一流の元祖とならせ給うこと」とある。その由来は下賀茂明神が下賀茂明神末世の女盲人を不愍(ふびん)に思われ、嵯峨天皇第四の王女相模の姫を盲目で誕生させた。父母帝はこれを悲しみ諸神に姫の開眼を祈願したが効果はなかった。こうして姫君七歳を迎えたある夜、紀伊国那智山如意輪観音が姫の夢枕にたち、姫は末世盲女人の司(つかさ)となるべき下賀茂王家の姫君である。諸芸をもって世を渡るべく弟子五人を付属させるので、これより後はこの五派の盲女を友として諸芸をはげむべし、と言われたところで夢が覚めた。

 姫はこの夢の話を父母帝に告げたところ、帝は有難く思召し、摂家などから五派をとりたてるとともに院宣(いんぜい)をもって瞽女の位官ならびに掟などを定めた。このうち掟書は「式目之事」とあって、

一仲間惣領一老官四〇年にして頭とすべし、もっとも頭たるべき者は一派の願いで吟味を行うときは一派の老を集め取り捉(さば)くこと、一人での取り捌きは間違いのもとである

一仲間のうち不行跡あるものは年落し(年数でその位が昇るが、罪により五年・一〇年とその経験年数がけずられること)の罪に処する

一一派に背き他派に走って師をとったときは、もとの師匠に戻っても他派に従っていた年数は加算しない

 このほか脇で年をこし家に戻らないときは年々の稼ぎを留めることなどとあり、これらは相模の姫君の弟子たちに伝え置く事なりとある。

 そしてこの一巻の奥書には前記のように明治十二年十月一日の日附と武蔵国埼玉郡越ヶ谷宿ふじ・ちか・いとの連署がある。もっとも昭和三十五年に九〇歳であったというゴゼ榎本ふじは、逆算すると当時九歳であるが、盲目の女性は幼少から弟子入りするのが普通であったといわれる。

 このゴゼの遍歴もラジオやテレビの茶の間への普及によりほとんどが姿を消したものの、悲しい運命を背負い諸国を遍歴して歩いた彼女らの姿は、はたからみるとみじめで物哀れな存在に見えた。しかし彼女らは相模の姫君が始祖であるという縁起書を携え、下賀茂明神の末世を支えるゴゼとして、大いなる誇りをもって芸道に精進していたのである。(萩原龍夫氏の御教示による)

ゴゼの遍歴