明治三十二年の越ヶ谷町大火

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 越ヶ谷町は江戸時代の宿場町で、家並は軒を接してつらなっていたため、一度火災が発生すると大火になることが多かった。ことに明治七年十月二十日の夜発生した火災は明治二十六年五月の川越大火に次ぐもので、このときの焼失家屋は越ヶ谷町と瓦曾根村で三九六戸(四丁野村の一軒を含む)、土蔵八六棟、物置一八か所、堂宇二宇、焼死者二名という惨事であった。通称この火災は針屋火事と呼ばれたが、越ヶ谷・瓦曾根ともその羅災率はおよそ六〇パーセント近くに達し、越ヶ谷町にとっては壊滅的な打撃をうけた火事であった。それから二四年目にあたる明治三十二年二月九日、またまた越ヶ谷町は一一二戸焼失の大火に見まわれた。これは通称芋金火事と呼ばれる。この火災の惨状は埼玉公論第三六号にくわしいので、その要旨を紹介しよう。

 本月九日の夜十二時を過ぎたころ、埼玉郡越ヶ谷本町三丁目の西側、焼芋屋金次郎の灰置場から燃えだした火は、折からのはげしい西北の風に乗ってたちまち東側の八百屋重右衛門方に延焼、東南方に向かって火は広がり同町二丁目、一丁目、仲町を焼き払い、東側の小林清蔵方、西側の有滝政之助方で焼け止まったが、この飛火で新石町(新町)の裏手荒布長屋と称される長屋まで焼き払われた。その焼失戸数は一一二戸そのほか町役場と鈴木銀行及び土蔵五棟、物置三か所が焼失した。

 このうち類焼者の主なものは呉服商兼消防頭の塗師こと小泉市右衛門、小間物売薬商小松屋政次郎、新聞雑誌売りさばき業協立舎山崎長次郎、料理屋角半こと山田半兵衛、旅人宿河内屋こと小泉清吉などで、なかにも小松屋は一切の家具を土蔵に入れたが、この土蔵が焼けおちたので丸焼の姿になった。また紀の国屋こと水谷喜二郎は昨年九月に新築したばかりの家を失なった。このなかで左右火に包まれながら焼け残ったのは西側では白木綿問屋遠藤小兵衛宅、質屋堀伊左衛門宅、煙草屋中島竹二郎宅ほか一戸、東側では右遠藤の持家一戸だけであった。

 もとより越ヶ谷町は総戸数六二二戸の町であるのでこの火災には非常の騒ぎとなり、土地の消防夫は役に立たなかったし、一〇日ほど前に一〇〇余円かけて新設した火の見やぐらも早く焼けおちたので用をなさなかった。ことに水に不便な土地であったので消防作業もはかどらなかったが、警察の指揮のもと東武鉄道工事請負の田村組と小倉組の工夫数十名が消防に協力し、かつ近郷の消防夫もかけつけてようやく消し止めることができた。

 また町役場では焼けおちる前に書類はすべて持ち出して焼失をまぬがれ、かつ金銭はすべて鈴木銀行の金庫に預け入れていたので、損害はなかった。もとより越ヶ谷町は昔から初午と市日が合わさったときは火事があるとの言い伝えがあり土地の人たちは気づかっていたが、この日も初午と市の日で、この日に消防の出初め式をやったばかりであったという

 この火災に対し見舞金を出したのは草加馬車鉄道会社から金三〇円、田村組と小倉組から金五円あて、また不思議にも類焼をまぬがれた木綿問屋遠藤小兵衛方から類焼者に金二〇〇円がよせられた。ちなみにこの火災で米蔵は五棟焼失し米一〇〇〇余俵が灰になったが、類焼者のなかには火災保険をかけている家は一軒もなかった。

 ただ保険交渉中のもの一二軒あったそうだが、この火災には間に合わなかったのはもちろんである。

 なおこの火災で繁昌をきわめたのは大沢町の旅人宿と達磨(だるま)屋で、達磨が不足したとてその仕入れに上京した者もいるという、人の災厄中さりとはのんきな者どもなり……。

 以上が埼玉公論の要旨である。火災の恐ろしいのは昔も今も変わりはないが、現在の越谷は越ヶ谷・大沢のみでなく、その多くが住宅密集地であるので危険度はより大きくなったといえる。

宿場町の火災