南埼玉郡役所と越ヶ谷町訴願事件

150~152/236ページ

原本の該当ページを見る

 「都区町編成法」の施行に際し、明治十二年三月埼玉県では新しい郡村制が施行された。それまでの埼玉郡は南北に分けられ、越谷地域は久喜・春日部・八潮などの各地域とともに南埼玉郡に所属した。この郡役所の設置は区制の廃止にともない、町村と県との中間に設けられた行政の執行機関で、郡役所は岩槻町に置かれ、官僚から任じられた郡長が郡行政の執行にあたった。

 次いで明治二十三年五月、府県制郡制の施行にもとづき、郡役所には郡会議員と参事会員によって構成される自治制郡会が設けられることになったが、埼玉県でこの実施をみたのは明治二十九年八月のことであった。この郡会議員の選出は、このときは七地区に分けられ各地区から三人宛(粕壁地区のみ二人)二〇名の定数、このほか地租一万円以上の大地主から選出される議員が六名、計二六名で構成された。続いて明治三十二年七月、地主議員が廃止されるとともに、選挙区は一九区に分けられ、議員は各区一名から二名の選出で定数は二九名に改められた。

 ちなみに明治二十九年から同三十二年までの議員、つまり初代の議員を市域でみると、大沢町の島根荘三、出羽村の中村悦蔵、桜井村の深野恒三郎、大相模村の山田平三郎、増林村の滝田文右衛門(地主選出)、出羽村の井出庸造(地主選出)の諸氏であった。また明治三十二年の郡会改正から明治四十五年までの市域の議員を列挙すると、次の通りである。

 越ヶ谷町から山崎長右衛門、小泉市右衛門。大袋村から細沼貞之助、小林小平次。出羽村から井出庸造、小林伝右衛門、松沢廉之助、荒井吉右衛門、中村貞次郎。荻島村から野口倉之助、川島重蔵、田村栄太郎。増林村から滝田文右衛門、榎本英蔵、鈴木喜一郎、鈴木六三郎、滝田滝太郎、宮川縫蔵、山口喜市郎。桜井村から上原治郎右衛門、森森太郎、高橋定次郎、吉岡芳雄、中村立。新方村から長野保寿老。蒲生村から中野柳助、浅見伝蔵、秋山勇之助、中村彦左衛門。大相模村から秋山吉重郎、斎藤益太郎。川柳村から新井保太郎、石井利助、中村源三郎の各氏が選出されていた。このうち市域で郡会の議長を勤めた人には井出庸造、細沼貞之助、榎本英蔵の諸氏がいる。

 このように地方自治の制度が確立されたものの、当時の地方自治機関は上意下達を徹底させる国家行政の出先機関のような色彩が強かったので、町村独自の自治的決定も郡役所の査定で不認可となることもあった。こうしたなかで大正三年、郡長の辞職を求めた越ヶ谷町の内務省訴願事件が起きている。時の町長は民権主義者で知られる大塚善兵衛、相手は水谷麻之助南埼玉郡長である。

 この先越ヶ谷町では明治四十三年の大水害に対処し、「細民の負担を軽減するため」町村税法では均一の課税を原則とした営業・舟車・演劇などの町村税率を郡役所に了解を求めたうえ不均一課税に改めた。このため町民は税を納めやすくなり大正二年には滞納が一掃され完納という成績をおさめることができた。こうして越ヶ谷町では大正三年度も、大正二年に設立され多大な収益をあげている帝国瓦斯力電燈株式会社の大型税を織りこんだ不均一課税の予算を町会で可決した。これに対し郡役所は町村税法違反として不認可の処分に付した。

 これを不服とした越ヶ谷町では、不均一課税の合理性を県知事に訴えたが、県知事もまた郡長の主張に同意したため、こんどは郡長の辞職を織りこんだ強硬な訴願書を内務省に提出した。こうして郡や県にはげしく抵抗していた大塚善兵衛は同年十二月肋膜炎を起こして病没、水谷郡長も大正四年一月依願免職に処せられた。なおこの事件に対する内務省の裁決は不明ながら殖産興業を国策とした当時の国は、電燈会社などの営業に阻害となる不均一課税は認めなかったに違いない。いずれにせよ町村自治を圧迫する郡役所に対する不信はその後全国的に広まり、ついに大正十年郡制廃止の法律が公布された。

岩槻町の南埼玉郡役所