文芸誌「あかつき」とその記事

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 明治三十七年八月越ヶ谷町から「あかつき」という八ぺージだての月刊文芸誌の第一号が発刊された。発行所は越ヶ谷町一四九番地の暁社で、編集者は田口菊太郎(のち県議)、森泉貞之助(武里村長)、滝田光三(増林の人?)、賛助員には原又右衛門、藤波磯吉ら、誌友には当時サンフランシスコ在留中の大塚善太郎らの諸氏がいた。「あかつき」発刊の目的は「清き娯楽と新しき思想の普及」を目的とするとあり、論説や詩歌・俳句・小説などが掲載されていたが、当時日本は日露戦争中で出征軍人の書簡なども収められていた。

 現存する「あかつき」(東京大学明治新聞雑誌文庫蔵)は明治三十八年八月から翌三十八年三月に至る八号までのものだが、今からおよそ八〇年前における人びとの考え方が反映されているとみられるので、このなかから若干の記事を紹介してみよう。

 第一号から二号にかけて「富とは何ぞや」という論説が掲げられているが、このなかで次のような記述がみられる。「近頃社会主義の声が各所に喧しくありまして、私も其精神の博愛慈悲という点で賛成を表する一人でありますが、その実行の方法とその弊害とは目下研究中であります」と前置きし、世の財産家は博愛や慈悲を行わないため不平不満をとなえる人もでてくるのだと述べている。さらに論者は、なにより大事なことは労働は富の母で神聖なものである、としている。

 それなのに「我が国ではこの労働を非常に卑しむ癖があります」といい、たとえば「我々が東京へ出ると赤毛布とか田舎っぺとか、土百姓とか水呑百姓とか、それは実にひどいものです」と憤慨している。そして富者の多くは「鼻先にある新聞一枚取るのも下女を呼ぶ、一体この下女なんぞと呼ぶのがすでに労働を卑しむの証拠で、はなはだよろしくない言葉です。私思うに下女も内閣総理大臣もやはりお国の奉公人であります」といい、土百姓とか下女下男などとこれを卑しむのは未だ開けない野ばん時代の風習であると述べている。

 また「茶烟閑語」と題した論説が掲げられているが、これには日本人は「肩がきを崇拝する国民」であると述べ、最高の学校を出て学士になってもその学力はどうだろう「大分出来たにせよ学校を出るとそろそろ忘れ始める。妻をもらって忘れる。子をもって忘れる。年をとって忘れる。ついにみな忘れてしまう。これというのも日本人は卒業を誤解しているからである」として、本当の学問は学校を卒業した位で満足すべきでない。人の学ぶことがらは広く深いものだと説いている。そして終わりに、易者先生が分かれ道にきたとき、どちらに行けばよいか傍らの農夫に訪ねたところ、農夫は「あなたは易者先生ではないか、自分で行くべき道を占(うらな)ったらよいだろう」と答えた。すると易者は「自分もさきほど占ってみたところ農民に聞けという易がでたのだ」という話を載せている。

 つまり論者の結論は、易者先生のたとえ話を比喩として、権力や権威を背景に上意下達を押しつける学者や政治家に、もっと農民の意見を尊重すべきだと言いたかったに違いない。当時日本は富国強兵、殖産興業を国策として近代化を押し進めていたが、ことに工業の振興に力を入れていた。しかしこうした近代化政策は労働力の確保など農民の犠牲のうえになり立っていたもので、農民の多くはその子女を貧しさのため身代金(前借金)で工場などへ働きに出していたのである。

 こうした農村の貧しさを反映させた俳句が「あかつき」にも載せられているので、そのいくつかを掲げてみよう。〝飢寒し 里子返して 其夜から〟〝夜や寒し 子供ねかして 手内職〟〝きりきりす吾に三斗の 涙あり〟〝何処へ曳越す荷物やら 秋の暮〟〝破れたる ぬのこ繕う 夜寒かな〟〝戸を明て 置くより寒し 壁の穴〟等々がみられる。

昔の面影を残す越ヶ谷本町の家並