大町桂月の越谷紀行

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 明治から大正にかけて活躍した文学者大町桂月(明治二年~大正十四年)は、落合直文の系統に属した美文家で、『美文韻文黄菊白菊』など数多くの著書がある。桂月は文学の指導にあたるかたわら東京をはじめ各地をさかんに遊行し、その紀行文を残しているが、大正五年二月の末、梅見のため妻とともに越谷を訪れていた。

 この日家を出た桂月は、大塚仲町から電車(市電)に乗って業平橋で下車、小梅橋を渡り浅草から東武鉄道の汽車に乗り替え、五〇分かかって越ヶ谷停車場(現北越谷駅)に下車した。平日は浅草から越ヶ谷までの運賃は下等で片道二七銭のところ、観梅期間の特別割引で往復三〇銭であったという。以下この紀行文の大要を示すと次の通りである。

 観梅客のためにとくに西口に設けられた改札口を出ると少し雨が降ってきた。このとき「宇田川」と染め抜いた印半〓〈纒の旧字体。右側黒の部分を黑〉を着た男が「梅園に行かれるか」というので「そうだ」と答えると「これを持たせ給え」とて傘を渡してくれた。傘をさすより早く雨は止み、かえって手荷物になったが、三町程で大房の古梅園に着いた。園内には掛茶屋が数か所あってしきりに客を呼んでいたが、傘を借りた義理で「宇田川」という掛茶屋に休んだ。ほんの申訳ばかりの垣根が一方にあるだけで、梅林は浄光寺という寺に連なり、田に連なり畑に連なる。花は今を盛りと咲き満ちているが、遊客はわが夫婦の外はただ一組の男女だけで、茶屋はいずれも失望したさまである。妻はこれをみて、〝梅の花 にほひこぼるるこの里を鶯ならで訪ふ人のなき〟と歌にしてこれを詠(よ)んだ。

 また茶店の者から梅の花はこの園内だけでなく、さらに四方に広がるといわれ、印半〓〈纒の旧字体。右側黒の部分を黑〉男に案内されて行くと梅また梅、家あれば必ず梅林があって尽きる所を知らない。妻はこれに驚いて、〝わけ行けば 奥より奥に奥ありて 果てしも見えぬ梅の花園〟と詠んだ。なかでもある茅屋の前に「雲竜」と称する古梅があったが、これはこの家の先祖が植えてから十数代を経たもので、数百年の樹齢だという。さらにこの村には梅のほか桃林もあるという話に「梅と桃いずれが利益か」と問うと「梅なり」と答えた。茶屋に戻り梅干を肴(さかな)に茶を飲み停車場に向かったが、一汽車おくらせ人力車で大相模の不動に参詣することにした。街を離れると道は元荒川沿いにつらなる。堤防上の道をおよそ二十四、五丁行ったあたりで堤を下りると不動尊の境内である。ちょうど不動の縁日で近郷の男女老若群集して広い境内をうずめていた。見世物も数多くでている。本堂は十五、六年前に焼けて(明治二十八年)今あるのは粗末な仮りの本堂であるが、山門だけは焼けずに残ったという。山門を出る右手に梅園がある。このなかの「十善梅」という古梅は幹の廻り一丈三尺関東第一の梅の大木だという。その他の梅もみな老木でいずれも寄付によるものであるという。このほか境内には一〇間四方の藤棚や、東西一一間、南北一六間に葉を茂らせた老松などがある。

 ここから車を戻して久伊豆神社に詣でる、松の並木がつらなる参道は長く、また池のほとりの藤棚はことに偉大で見事なものである。久伊豆神社に詣でたのち停留所近くまで戻ったが、ここで山正園(現北越谷浅間社跡)を訪れる。松の並木あり、小亭あり、池あり、丘の上には浅間の祠がある。この山正園はもと浅間社の境内地であったが、原鉄運送店の主人が買収して庭園として公開したものだという。

 停車場にくるとまだ時間があったので、何かみやげをとて物売る家を見廻したが、これはと思うものはみあたらない。ふと我が家の幼児がマッチ箱のベーパーを集めているのを思い出し、まだ所持していないペーパーをやっと探し出して一箱買い求めた。価は五厘、これがこの日の土産であった、とある。大房の古梅園や大相模の不動など、それぞれ当時の情景を今と比較してみて興味あることであろう。

古梅園の絵葉書