昭和の農業恐慌(きようこう)

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 昭和四年(一九二九)十月二十九日、アメリカニュヨーク株式市場の株価暴落に端を発した世界恐慌(景気のうえでの最悪な経済状態)は、ただちに日本へも波及し日本経済は混乱の渦に巻きこまれた。ことにアメリカ市場に依存する生糸は同年四月の高値一梱一四〇〇円台であったのが、翌五年十月には五〇〇円にまで暴落した。この生糸の値くずれをきっかけに米穀はじめ農産物の価格は急激に暴落した。

 しかも同年秋の産米は六五〇〇万石をはるかに突破するという空前の大豊作であったため農業恐慌に拍車がかかり、同年十月二日には前年四月の米相場一石あたり三〇余円の価格にくらべ、約半分値の一六円に下落した。野菜類も「キャベッ五十が敷島(巻煙草)一つ(一八銭)」というほどの安値となり農業恐慌はすさまじい勢いで進行した。こうした農産物の暴落にかかわらず肥料や農機具は逆に暴騰を続けたため農家の経営は破綻に直面した。

 当時の状況をたとえば『蒲生村時報』昭和五年十二月号の巻頭言によってみると「私どもの乗っている汽車は広い広い花野を過ぎ、沃野をひたばしりに走ってきたが、ちょうど今大きなトンネルに差しかかった処です。トンネルの中は真暗で底冷えがして薄気味悪い、鬼気身に迫るという言葉そっくりです(中略)。米は安い、麦は安い、野菜も繭も藁細工も何もかも安いのを通り越して、今や桁はずれの暴落です。経済の破壊だ産業の破滅だと騒ぎ出す者すらあります」と深刻な不況の危機感を吐露している。

 また『蒲生村時報』昭和六年七月号には「当地方の主な現金収入である藁工品は販路杜絶(とぜつ)の有様で価格も空前の下落ぶりです。大人一人の働きでは朝日の巻煙草一個も手に入らないという悲惨さ、野菜類も品物によってはリヤカー一台の仕切り(値段)が、砂糖一斥の代金にも足りないし、自動車賃にもならない。誠に痛歎に堪えない」との寄稿記事などがみられる。

 こうした農民らの生活苦が文芸にも反映されたのはもちろんで、たとえば『蒲生村時報』文芸欄の俳句には〝行く秋や 捨値野菜を船に積む〟〝炎天や 売残りたる玉菜畑〟〝初買や 買わずに歩く市の町〟〝初恵み 貰う人より我が心〟〝病む犬の 残暑にたへて痩にけり〟などといったやり場のない率直な感情をもりこんだ句が数多く載せられている。

 こうしたなかで蒲生村農会では、この不況を切り抜けるため「自給自足で辛棒しましょう」「着物や日用品もできるだけ有る物で間に合せましょう」「自給肥料を丹誠してつくりましょう」「お互いに助け合って進みましょう」などの標語を掲げ、不況対策として徹底的な節約を呼びかけたりしていた。

 政府もまたこの経済恐慌の深刻化を黙視することはできず、昭和七年から農村救済対策に乗り出し、町村単位による道路の新設改良、それに用排水路の改修を主とした救農土木工事や小開懇事業などに補助金を支給して農村の振興をはかった。同時に、「手本は二宮金次郎」と小学唱歌にもとり入れられた二宮尊徳仕法の昻揚を掲げ、生活改善や勤倹力行を標示した「自力更生運動」をひろく展開させた。

 窮乏にあえいでいた農村は、村ぐるみ町ぐるみの必死な努力によって農業恐慌を切り抜けることができたが、これで平和で安泰な道が開かれたというわけではなかった。すでにこのときは戦争という悲惨な運命が国民の知らないうちに準備されつつあったからである。

昭和45年ごろの蒲生光明院裏の農地