越ヶ谷順正会

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 国民健康保険法は昭和十三年に制定されたが、これにさきがけ昭和十年に相扶共済を目的とした類似組合を結成したのが越ヶ谷順正会である。ここに越ヶ谷は国民健康保険発祥の地として高い評価をうけている。

 当時地方の町村は、長い間の不況のもとで極度に疲弊をきたし、豪商といわれた昔からの商家も次々と倒産する状態にあった。こうしたなかで越ヶ谷町は昭和五年県立越ヶ谷高等女学校(現越ヶ谷高等学校)の誘致による多額な負債その他で一〇数万円の負債をかかえ、町財政は行きづまりをみせていた。これを憂えた町の有志は、町財政の更生をはかるため至誠会という無尽講を設立し、滞納税の一掃をはかった。いわば至誠会は一種の納税組合といえる。

 こうした努力によって納税成績は向上し、町財政も向上をみた。しかも昭和十年には至誠会経営による無尽講の利金一三〇〇円の流動資金をも捻出することができた。有志一同はこの流動資金の活用について協議を重ねたが、貧困は病気からという結論に達し、順正会という名称で医療に役立てることに一決した。当時越ヶ谷には、さきに県から譲られた診療所が使用されないまま放置されていた。そこで順正会ではこの診療所を順正会の医療機関として活用する計画をたてた。こうして昭和十年五月、地元医師会の了解をとりつけたうえ、医療救済実施の計画書を県に提出した。しかしこの医療機関は法人組織でないことと、資金の不安定なことを理由に受理されなかった。そこで順正会は、地元の有志村松医師の個人開業という形式をとるとともに、資金の円滑を期すため会員制をとり、会員の募集をはじめた。ところが越ヶ谷警察署ではこの種の会員募集は治安警察法に抵触する恐れがあるとして中止を申し入れてきた。ここに順正会の計画は挫折の止むなきに至った。

 こうしたとき、内務省と怩懇(じつこん)の間柄にあった人が越ヶ谷を訪れたが、この順正会の話を聞き、内務省の保険部長や企画課長など関係部課所を紹介してくれた。順正会の役員はこの紹介によってしばしば内務省を訪れ実情を訴え続けたところ、この企画は当時内務省が立案中の国民健康保険法案にいちじるしく類似していることがわかり、保険部長から激励されるとともに、内務省の保険規則案などの参考資料が手渡された。

 これに力を得た順正会の役員は同年九月、県との接衝を進めるとともに、県医師会の了解を求め、順正会の実現はようやく軌道に乗ったかにみえた。ところが同年十月になると越ヶ谷町の開業医がにわかに反対を示すとともに、県庁への電話連絡も警察署長の許可を必要とするなど、順正会に対する規制が強まり、形勢は再び悪化した。このうち医師団の反対理由は、医療費が不足したときは誰がその責任をとるか、という現実的な問題が未解決であったからである。

 この間、順正会に理解を示した内務省や埼玉県からは、各関係事務官などが来訪し、順正会の成立を激励する会合が開かれた。こうして同年十二月二十一日、機熟したとみた順正会役員は医師団の反対を押し切り、越ヶ谷教会で発起人九一名の参列のもとで発会式を挙行した。順正会の正式の発足である。はじめは地元の有志高橋医師のもとで診察が行われたが、歯科医師団との協定は成立し、会員の募集は軌道にのった。しかし、このときはたまたま県会議員や衆議院議員の選挙にあたっていたため、戸別訪問はきびしい禁止のもとにあり、会員の勧誘は困難をきわめた。それでも翌昭和十一年三月には二八一世帯の会員をうることができた。次いで同四月医師団との間で協定が成立し、その名を越ヶ谷順正会と改称した。以来会員の募集も順調な経過をたどり、同五月には四八八世帯の会員加入をみた。やがて昭和十三年国民健康保険法が成立したのを機会に、越ヶ谷順正会は同年七月、国保法にもとづく認可申請書を埼玉県知事に提出し、認可を得た。

 国保法の成立以前、すでに相互扶助を目的に、独自に類似組合を成立させた越ヶ谷順正会の苦難の歴史は、そのまま地方自治の心髄(しんずい)を発揮(はつき)したもので、越谷の誇りといって過言ではなかろう。

市役所構内にある相扶共済の碑