配給制度と越谷

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 昭和十六年十二月八日は、日本軍によるハワイ空襲が強行され、同時に米英に対する宣戦の布告が発せられた日である。以来日本の国民は昭和二十年八月十五日の終戦まで世界の強国米英その他連合軍を相手とした苛烈な戦争の渦中に投ぜられた。この間越谷の人びとはどのような日常を送っていたであろうか。

 このうち衣食住については「欲しがりません勝つまでは」の標語に象徴されるように、極度の耐乏生活を強(し)いられた。当時すでに家庭用消費物資の多くは配給制が採用されていたが、この配給は昭和十四年十一月の地下足袋の配給から始められた。このとき桜井村では十月分として地下足袋の購入券が三五枚割当てられたが、この数量は大字(旧村)単位ではわずか五足宛てに過ぎなかった。ちなみにその代金は一足一円二五銭であったが、その数量は次第に減らされている。

 次いで砂糖とマッチが昭和十五年六月から始められたが、砂糖は一か月あたり○・五斥、マッチは一人一日あたり五本宛ての数量であった。これらの配給量も漸次減らされていったのは地下足袋と変わらない。さらに同年八月タオル・軍手・靴下などが切符による配給制になったが、このうち衣料切符制は十七年一月から点数切符制に切り替えられた。この点数は国民一人あたり一年間の消費量を定めたもので、都市部で一〇〇点、郡部で八〇点、子供は各部ともその半分というものであった。このため越谷などの郡部では五〇点の背広一着と一二点のズボン下二枚、それに四点のパンツ一つを求めるとあとは何も買えないというわけである。

 しかも現物が配給量にともなわなかったため切符があっても品物がないという状態で、のちにはその消費点数は五〇点・四〇点と削減されていった。もちろんその他の消費物資も容易に手に入らなくなっていた。それではこれらの物資の配給事情を新方村(現越谷市新方地区)の配給回覧板によってそのいくつかをみてみよう。

味噌醬油通帳制に就て(昭和十六年)

 此度味噌醬油モ切符ノ動員ガアリ、イヨイヨ本月ヨリ通帳ニヨル購入ト改マリマシタ(中略)一カ月割当数量ハ味噌一人百八十匁、醬油一人三合

菓子ノ切符制(昭和十七年七月)

 今般菓子ノ切符制ヲ左記ニ依リ実施致シマス○購入券ノ交付ヲ受ケタナラナルベク早ク購入シテ下サイ、早イ方ガ自由ノ菓子ノ配給ガ受ケラレルト思イマス○切符ノ有効ハ発行後一週間デス○資源愛護ノ上ヨリ必ズ入物ハ持参下サイ(後略)

石鹼チリ紙配給ニ就テ(十七年八月)

 大変オ待タセ致シマシタ 石鹼チリ紙左記ニ依リ配給券ヲ出シマシタカラ至急オ買取下サイ○石鹼四人以下家庭一個、五人以上家庭ニ個○チリ紙 区長サン宛テマトメテ配給ヲオ願ヒシテアリマスカラ、通知ヲ受ケタナラ必要ノ人ハオ買取下サイ

食料油ノ配給ニ就テ(同八月)

 品ガ全部入リマセンノデ、取敢エズ御燈明用範囲ニ各戸一合当リ左記期日ニ配給シマス

縫糸ノ配給(十七年十二月)

 今度縫糸ガ少々入リマシタ 但シ全家庭ニ配給スル程品ガ有リマセンカラ、間ニ合フ人ハ比ノ次ニ買フ様ニシテ〇十二月十二日限リ○注意、衣料切符持参ノコト認印ヲ忘レヌコト

ボンゴザの配給(十八年七月)

 今迄自由に買へたボンゴザも今年より配給となり目下第一回の品が入って居ります 必要な方は役所に申出下さい

配給のお知らせ(十九年三月)

 (前略)ヌイ糸一、二日ノ内ニ現物ガ入リマス今少シオ待チ下サイ ○手拭、近イ内相当入ル予定デス

配給割当表(二十年四月)

 ○マッチハ一戸ニ付小箱三個罹災者ヲモ含ム○石鹼一人ニ付半個○ローソクハ一戸ニ付一本半○チリ紙ハ適当ニ配分スルコト

このように新方村の配給回覧板からも、戦時中の配給事情は年々きびしさを加えていったことが窺えられたはずである。しかしこのような耐乏生活を余儀なくされるという事態は今後決してないとは誰しもが保証できないであろう。

新方村の配給回覧