農地改革と越谷

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 戦後、連合軍の対日占領中に実施された重要な改革の一つに農地改革がある。これを普通、農地解放と呼んでいる。これは山林を除いた農地を開放し耕地を持たない農民に与えるという政策で、北海道などの特定地以外では三町歩(約三〇〇アール)を超えた自作地と、すべての不在地主(耕作をしてない地主)が所有する土地を国が強制的に買い上げ、これを小作などをしている実際の耕作者に払い下げるという措置であった。

 この法律は連合軍の要請により、昭和二十年十一月「農地調整法改正法律案」として議会に提出されたが、大地主層から選出された人が多い国会議員の抵抗が強く、この法律の成立が困難な状況に置かれた。これに対し連合軍総司令部は「農地改革に関する覚書」を発し、その成立を指令した。このため議会では種々検討を重ねた結果、はじめに示された原案を大幅に修正してこれを成立させた。これを第一次農地改革と称する。

 ところが司令部ではこの修正された法律を認めず種々条件を付したうえ、新たに法律を制定することを指令した。このため政府は二十二年九月、連合軍が示した諸条件を盛りこんだ「自作農創設特別措置法案」と「農地調整法改正法律案」を作成し、同年十月これを議会にかけて成立させた。これを第二次農地改革と呼んでいる。これによるとこの法律ははじめの原案よりいくぶん緩和され、不在地主の一町歩以上の耕地と、自作地と小作地を合わせた三町歩以上の耕地が解放の対象となった。

 こうして農地改革の執行機関として農地委員会が構成され、農地の買収が進められた。この買収価格は国で示した統制基準によると、田一反歩(約一〇アール)につき金六四五円二〇銭、畑一反歩につき四〇七円であったが、実際はこの額を超過して買上げられた。たとえば桜井村(現桜井地区)では田一反歩平均八二二円一一銭、畑で五〇五円四四銭で取引されている。このため価格の点で異議の申立てを行なったのが一六件にのぼったが、このうち申立てが認められたのが八件、却下されたのが八件であった。

 当時の桜井村の階層比率をみると、桜井村農家の全戸数三八五戸のうち地主が四一人、自作農が一〇七人に対し、小作農が二三七人でその比率は六一・六パーセント、その小作地面積も五四・二パーセントを占めていた。こうしたなかで二十三年二月には、およそ一八九町歩余の耕地が小作者層に解放されたが、同年六月にはその解放地は二〇〇町歩余に達し、当初予定された面積の一〇〇パーセントを突破した。

 この農地改革に際しては、各地でさまざまなトラブルが発生したが、越谷地域ではきわめて平穏に解放が進んだようである。こうして二十四年七月にはぼ農地の解放は完了し、同年十月農地委員会は事実上「登記事務促進協議会」に衣がえすることになった。この登記事務に関しては、浦和法務庁の出張所が越ヶ谷町に設置されていた関係上、越ヶ谷町を中心に、新和村(現岩槻市)、大門村(現浦和市)、戸塚村(現川口市)を含め近隣一四か町村で協議会が構成された。

 その後政府は、二十六年三月農地改革の完了を宣言し、同年七月「農地委員会」を「農業委員会」に切りかえる法律を制定した。この農業委員会は正確にいうと農地委員会と農業調整委員会、それに農地改良委員会の三組織を合体したもので、その後の農業改良事業などの推進母胎になった。

 この間寺院や神社の所有農地も解放の対象になって買い上げられたが、なかには桜井村平方の鎮守浅間神社所有農地のように、この農地は古来から氏子によって共同耕作を行い、その収穫米によって神社を経営してきた由緒を陳情し、これが認められて買収から除かれたところもあった。今日になっては遠い昔の語り草になったが、当時はたいへんなできごとであったのである。

平方の農地