越谷の桐箱(きりばこ)産業

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 文化年間(一八〇四~一八)から文政年間にかけ、小説「浮世風呂」などを著わして人気を集めた流行作家に式亭三馬がいる。当時の作家は原稿料だけでは生活できなかったので、創作のかたわらなんらかの商売をして生計を維持するのが普通であった。

 このうち式亭三馬は薬種小売店を経営し、「仙方延寿丹」とか、「婦人の薬」とか、「金勢丸」とか名付けた薬を販売したが、なかでも箱入りの「江戸の水」はおしろいがよくのるというので、江戸の女性たちにたいそう評判となりよく売れた。その効能書には「おしろいのよくのる薬、ひび、しもやけ、お顔のでき物一切によし、箱入代四十八文」とある。

 このガラスびんにつめた「江戸の水」は、桐箱に入れられて売られたが、この桐箱の購入先は、はじめ江戸浅草福井町箱屋利助と、越谷大泊村(現桜井地区大泊)箱屋長八で、一〇〇文につき一四個、つまり一個あたり七文余で仕入れていた。

 ところがそのころ知人の紹介で越ヶ谷在の箱屋が一〇〇文に付一六個、つまり一個あたり六文で売るというので、それからはすべて越ヶ谷在の箱屋から仕入れたという。

 このように式亭三馬の商才はなかなかのものであったが、当時越谷の桐箱製造は江戸でも有名であったことが知れる。その後も越谷の桐箱造りは盛んで明治・大正・昭和と持続された。昭和三十二年四月の埼玉日報の記事によると、当時越谷の桐箱製造は全国一と記されている。興味ある記述なので紹介してみよう。

「旧大沢町を中心にして大袋・桜井村を一帯に越谷は桐箱産地で有名である。桐の小箱製造を深意とし、農家の片手間または専業として、いずれにしても家内工業現在百二、三十軒の業者が年産二億円「税務署推定」、よく発達したものである。土地に桐材がないので福島・新潟あたりから原木を取り寄せる。会津桐なども使われる(中略)。その後ダイヤモンド歯磨の小箱を一手に引き受けてから東京で有名になった。原材は手挽鋸でひいたが、明治の末期に大沢三丁目に住む黒田平次郎氏が発動機を購入製材した。先覚者であった。桐と名のつく品物ならなんでもできる。現在タンス業者はわずか四軒だがその他は商品券入れ、ネックレス入れ、メタル箱、タボ止め入れ、雛人形ケース、なんでもござれである。風呂敷箱、松魚節(かつおぶし)入れ、釣竿箱でもありとあらゆる桐の小箱が生産される。最近のことである。大坂の某銀行から小切手箱二万個の注文があった。用途を尋ねてみるとこれが贈答用、しかも入学や進学の祝に大坂では小切手を使う。商品券は税金がかかるが小切手は税金がかからない。あくまでも実利的な関西人の気持が判ったことがある。学校の裏門入学のお礼、案外こんなところにも越谷の桐の小箱が役立っているのである。タンスでは川越、春日部に一歩を譲るが、小箱の生産は日本一、技術も日本一だと業者たちは古い伝統を誇って自負している」(原文のまま)

 以上が埼玉日報の記事で、昭和三十二年当時越谷の桐箱生産は日本一、技術も日本一だとある。ちなみに本記事中大沢黒田氏の桐箱製板については、大正五年刊の『越ヶ谷案内』には、黒田製板工場として、「明治四十年ごろ故黒田平次郎氏の創業にかかり、客臘(去年のこと)同氏没後は息、喜代利氏父業を継ぎ、もっぱらライオン歯みがきの桐箱の製板をなし、十馬力の動力機械を運転して当地方より転出さるる桐小箱、一か月三十万個の原料桐板はほとんどことごとく同工場において製材されるのである」とある。

 桐箱生産は越谷の地場産業として埼玉日報の記事にある通り最近まで隆盛をきわめていたが、現在は目だたない存在になっている。この変化は今からわずか二十数年の間のことで、今昔の感ひとしおのものがある。

桐箱づくり工場(御殿町)