小判ざくざく物語

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 大きな被害をもたらせた昭和二十二年の関東洪水にかんがみ、政府は利根川水系の大改修を計画、河川敷の測量をはじめるとともに、地元との接衝が進められ昭和二十五年から改修工事が進められた。このうち江戸川の拡幅改修には、西宝珠花村(現庄和町)の全戸数三二六戸中、実に七五パーセントにあたる二五〇戸が河川敷になる計画であった。これに対し村民は猛烈に反対を示したものの、結局昭和二十七年集団移転に踏みきった。

 もとより西宝珠花は江戸時代からの江戸川舟運の拠点で、しかも武蔵と下総をつなぐ街道の要地を占め、回船問屋・木綿問屋・米穀問屋などさまざまな商家が軒をつらね、ことに繁盛をきわめた町場であった。このうち移転を迫られた家は堤防ぎわの街道にそった中心街で、富裕な商家が集中していた所であった。さて移転が終わった所から逐次工事が進められたが、ある日五人一組で作業を進めていた土砂掘返し人夫が、地中から長方形の分厚い木枠の箱を掘り出した。中を改めたところ錆(さび)ついてない山吹色の小判がぞくぞくと出てきた。つまり千両箱である。

 思いがけなく千両箱を掘りあてた五人の者はびっくりしたが、一同相談のうえ一人二〇〇枚あての配分でこれを内密にすることを申し合わせ自宅に持ち帰った。その後昭和二十八年、それまでひそかに小判を所持していた五人のうちの一人が東京に出て古物商と談合し、一枚二〇〇〇円で売却、四人の者もこれにならってほとんどの小判を売却した。当時朝鮮動乱後の不安定な国際状況のもとで、金銀はとくに高値を呼んでいたときだけに、五人の者は予想以上の大金を取得したわけである。

 大金を手にした五人の者は早速家屋を修築したり、家具調度品を購入したり、衣料を新調したりした。これを不審に思った村人はさまざまな噂をたてたが、所轄の杉戸警察署もこれを怪しみ、五人を召喚して事情を糺(ただ)した。こうして一件は明るみに出た結果、「埋蔵文化財隠匿罪」によって令状が執行され、家宅捜索が行われた。この結果完全な形の天保小判九枚、細分された小判五枚、小判を鋳つぶして造った指輪などが発見され、没収された(河合寿三郎氏の記による)。

 さらに昭和三十二年八月、同じく西宝珠花の工事現場で作業中の工事人夫が、地下三尺余の地中から素焼の古がめ二個を掘り出したが、この中には江戸時代の金銀のうち二分金、一分金、一朱銀など千数百枚が詰めこまれていた。これを聞いた警察署が、これを届け出るよう警告したが、正直に届け出たのは一九三枚であったという。その後発掘された金銀貨のうち二分金、一朱銀など三五四枚が警察に届けられたが、これら警察に保管されたものだけでも金銀貨のうち二分金が一〇四枚、一分金が一七七枚、一朱銀が三五四枚に及んだ。

 ところがこの埋蔵金の所有権をめぐり、発掘者と国、それにこの古銭を埋めた子孫だと称する者が対立し争いが続けられた。結局この古銭は、警察に届け出たもののうち時効となり、拾得者に返還されたものもあったが、その多くは不正拾得として没収され国庫に納められたという。

 この地中に埋蔵された古銭は、おそらく西宝珠花村の裕福な商人が、強盗・押借が横行した幕末から維新期にかけての不安な世情を憂い、土中に隠匿して財産を守ろうとしたものであろう。ちなみに元治元年(一八六四)水戸藩尊王攘夷派、いわゆる水戸天狗党が筑波山に挙兵したとき、天狗党は西宝珠花の物持ち一〇名、その他から金一八〇〇両余を押借している。当時西宝珠花は富裕な商人が多いことがひろく知られており、いつ金銀を奪いとられるかわからない不安につつまれていたようである。

 なお越谷では昭和五十年、北越谷浄光寺本堂裏の墓地造成地から「開通元宝」や「皇宋通宝」「永楽通宝」「元豊通宝」など四八種一八二八枚の中国古銭が出土した例がある。これは銅銭・鉄銭が主であるが、おそらく戦国末期の乱世に越谷の富裕な豪士か商人が隠匿したものであろう。

発掘された小判