公民館と越谷

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 現在越谷市には十三か所の公民館が設置されていて、それぞれ地域に密着した公民館活動が行われている。この公民館は戦後の昭和二十三年三月に制定された「教育基本法」のなかには、国及び各自治体には、図書館・博物館・公民館を設置することが望ましいとうたわれていたが、この社会教育の本格的な施策が打ち出されたのは、二十四年三月「社会教育法」が制定されてからである。

 戦後の諸制度は、連合軍総司令部の指令にもとづいて施行されたものが多かったが、このなかで公民館設置の構想は日本独自の発想で文部省から提唱されたものであった。この公民館設置の構想は総司令部の支持もあって急速に普及していった。このうち越谷地域では蒲生村が社会教育法にもとづき、二十四年十一月役場内に公民館を設置してその活動を開始したのが早い方である。

 他の村々もおいおいこれにならったが、このうち増林村で公民館を発足させたのは、二十七年二月であった。しかも増林では発足間もない同年五月すでに公民館報『こうみん』の第一号の発刊をみている。

 この『こうみん』第一号のなかで、初代の館長は従来の社会教育は、郷土のための社会教育でなく、国家統制のもとでの社会教育で、個人を対象にしたものでなかった。これからの社会教育は、公聴会、討論会、懇談会などを計画的に開催し、自からの考えやその力で郷土の産業や文化を進めていかねばならない。このため公民館が中心となって各種団体を結集し、調和のとれた郷土の育成をはからねばならない、などとの趣旨による公民館活動の抱負を述べていた。

 この意欲ある館長の述懐にみられるように、増林村をはじめ各村の公民館は、各部の事業を総括する総務部。講演会や読書会などを担当する文化教育部。農地問題や農産物の品評会、それに共進会などを司どる産業部。競技会や体育講習にあたる体育部。レクリエーションを担当する娯楽部などを設け、広範な活動を展開させていった。

 当時日本は商工業の復興や対米講和など一応の戦後処理をはたし、独立国日本としての「経済の自立」が重要な基本課題となっていた。とくに農業に関しては自給自足を高める食糧の増産が大きな課題で、農地の改良や農村振興のため、多額な補助金を交付するなど、大規模な行政投資が積極的に行われていた。こうしたなかで、祖国の再建は農民の手にかかっていると自負する越谷の農民は、

「一粒の米、一個の芋の増産といえども、この食糧難の祖国を再建する基盤であると信じ、祖国の捨石となるのは百姓の本分である」「食糧の解決はわれわれが引受けたといいたい、またそうすべき責任があると思う、働こう、働き抜こう、働いて一日も早く祖国日本の再興を図りましょう、この信念は今も変りない」などと、その抱負と希望をいきいきと表現していた。

 村々におけるこうした公民館活動の活発さは、老幼男女を問わず村民が一体となり、農民としての誇りをもって農業の振興や文化の育成に公民館を活用したからにほかならない。たとえば蒲生公民館昭和二十七年度事業で青年講座などを開催したが、このうち婦人講座の受講者は延べ八九一人に達していた。

 こうしたなかで昭和二十七年十一月、地方教育委員会の発足にともない、公民館は教育委員会の所管に組み入れられた。次いで昭和二十九年町村合併が行われ新越谷町が成立するとともに、独立した各村の公民館は地区の公民館に位置づけられた。続いて同三十二年市制が施行され、農村越谷は制度的にも近代化に向かったが、同時に越谷市を一本化した婦人会や青年団その他の団体の自主的な活動が活発になり、公民館独自の機能は弱体化していった。

 ことに昭和四十年を契機とした急激な都市化の進展と農業の後退で、人びとの考え方も大きく変わり、個人個人の連携は分裂を深めていったが、最近地域社会の育成は自分たちの手でという運動が広まり、土地と密着した公民館の利用活用がはかられるようになった。

 こうしたとき公民館活動のあり方はいかにあるべきかが改めて問われているといえよう。

増林公民館報『こうみん』