元荒川と逆川の分離工事

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 昭和二十二年九月十五日、房総半島南端を通過したカスリーン台風は、関東の山間部に大雨を降らせた。多量の雨を受けた利根川の水位は急速に上昇し、新川通り琴寄(現大利根町)の堤防が同日の夜半、渡良瀬川の逆流と利根川の激流を受け、三〇〇メートル余にわたって欠潰(けつかい)した。

 堤防を突き破った濁流は栗橋町や幸手町の人家を破壊し田畑を洗い、さらに庄内古川や古利根川筋を南下し、十七日の昼ごろには松伏村に達した。桜井・新方・増林などの新方領の地に水が入ったのは十八日のことである。洪水のため破壊された堤防は、越谷地域だけでも逆川(葛西用水)で二か所、元荒川で一〇か所、古利根川で一八か所、千間堀(新方川)で一一か所、計四一か所に及んだ。

 この出水にともなう被害状況は、桜井地区で床上浸水九六戸、新方地区で同一八七戸、大袋地区で二二二戸、増林地区では実に六五〇戸が床上浸水という惨状で、田畑の作物も湛水期間が一週間に及んだため、ほとんど全滅に近い状態であった。ただしこのときは元荒川右岸の荻島・越ヶ谷・大相模などの洪水被害は比較的少なかったが、これは元荒川の蛇行による衝激地点が左岸堤に強く働いたためとみられている。

 いずれにせよ、カスリーン台風の猛威に打撃をうけた人びとは改めて治水の必要性に気づき、その対策を模索しはじめた。その一つが昭和二十三年の春に結成された新方領水害予防組合などであるがこれらは翌二十四年、利根川・江戸川水害予防組合連合会に合体し、水害予防対策実施運動が進められた。これに対し政府は利根川を中心とした抜本的な治水計画を練ったが、このうち元荒川を含めた「中川水系改修事業」は昭和二十六年閣議の決定をみた。

 この改修計画では元荒川の改修は中川筋の改修が終わった昭和三十一年以降という内容であった。これに対し元荒川沿岸六四か村では同年十月元荒川治水同盟会を結成し、元荒川改修の早期実現を期して関係省庁や県知事などに陳情をくりかえした。この結果、昭和三十一年埼玉県が国の助成を得てようやく元荒川改修計画の作成にとりかかることになった。

 この事業計画案によると、熊谷から吉川に至る元荒川の改修工事は総額三億六〇〇〇万円(県費四割)、期間は三か年。このうち第一期工事の計画では、排水能力を高めるため元荒川の河床を二メートルほど浚渫(しゆんせつ)する、荻島地区出津の曲流部分を直線河道にする、大沢地蔵橋地先で元荒川に合流した逆川(葛西用水路)を元荒川をくぐる伏越樋管によって分離する、などであった。

 ところがこの工事計画に対し、地元町村から強い不満が生じ、計画の修正を求める声が高まった。その主なものは河床の浚渫は水位の低下を来たし灌漑用の取水が困難になること、荻島出津の曲流を直道にすると多くの農地が潰廃されること、元荒川と逆川を分離すると取水能力が低下すること、などが挙げられていた。

 この結果、荻島出津の直道改修は中止されたほか若干の手なおしが行われ、改めて総工費一億五〇〇〇万円で昭和三十五年から工事が進められた。このうち元荒川と逆川の用排水分離工事は、両川を分離する中土手の築堤、ならびに越ヶ谷御殿町から柳町を縦断する逆川の新河道造成からはじめられた。そして昭和四十一年の春、元荒川の下をくぐる全長一〇〇メートルに及ぶ、当時埼玉県ではもっとも長い逆川のサイフォン(伏越樋)工事が完成し、葛西用水の通水がはじめられた。ここに元荒川と葛西用水路が完全に分離され、同時に大沢地蔵橋地先から瓦曾根溜井堰までの景観はまったく一新したわけである。

 こうして元荒川をはじめ、諸河川改修工事の竣功により、さらには利根川上流などのダム建設で、埼玉東部低湿地帯の水害は、いちじるしく緩和されたようである。しかし都市化の進行にともない水田地や遊水池の潰廃などにより、新たに集中豪雨による大水の危険が増大したともいわれる。

中土手によって分離された葛西用水と元荒川