大林のほたる

189~190/236ページ

原本の該当ページを見る

 江戸時代大林(大袋地区の元荒川=埼玉鴨場のあたり)には、夏になるといたって大きなほたるが数しれないほどあらわれ、群(むれ)をしなて飛んでいました。このほたるの群はいくつにもかたまって分かれ、それぞれ手まりほどの大きさの火の玉となって飛びかいましたが、川の流れにふれると四方に散乱しましたので、まるでほたるの戦争だとひょうばんでした。それで人びとはこれを「ほたる合戦」と呼んで、遠くから見物にくる人もいました。

 このうわさを聞いた江戸小日向(こひなた)の坊さんである、津田敬順という人が、文政八年(一八二五)の夏、友達をさそいほたる見物のため越ヶ谷宿本町池田屋吉兵衛方をおとずれました。吉兵衛は敬順とはかねてからの知り合いでしたのでたいそう喜び、ふろをたてたりごちそうをつくったりして、敬順ら一行をもてなしました。

 やがて日ぐれになったころ、吉兵衛がよい場所をあんないしましょうと、吉兵衛の家からおよそ五町(約五五〇メートル)ほど歩き、腰かけやちょうちんが用意された大林の元荒川の河原に一行をあんないしました。日がくれて暗くなると、両岸の草むらから四つ五つほどのほたるがきらりと光りましたが、これを合図にその前後三、四町ほどの川面(かわずら)に数万匹とも数しれないほたるが一せいにあらわれました。このほたるは手まりほどの大きさにかたまり、火の玉となって飛びかいましたが、うわさにたがわず川風に吹きつけられるたびに四方に散乱し、人びとの目をおどろかせました。

 これを見た敬順は、大林のほたるはおそらく宇治川のほたる合戦を見るのと同じようであろうといって、その見事さにびっくりしていました。こうして元荒川の河原で納涼(のうりよう)をかねながらほたる見物をする敬順らは、吉兵衛の家から運ばれてきたごちそうを食べながら、にぎやかな酒宴(えん)をひらいていました。でもそこを通る土地の人びとはこの酒宴の様子を立ちどまって見る人もなく、また悪口をいう人もいなかったので、心しずかにほたる見物をたのしむことができたと言っています。

 このほたるは越谷でも戦前まではめずらしいものではありませんでしたが、戦後農薬の散布や都市化のえいきょうで、ほたるの姿はまったくみられなくなりました。でもほたるが遊ぶ自然をとりもどしたいとのねがいは、私達の大きな夢の一つになっているのは間違いないようです。

さしえ・大徳美智子氏