越ヶ谷雛(ひな)

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 三月三日は「桃の節句」ですが、これは「上巳(じようし)の節句」といって中国から伝えられた行事です。その日は旧暦(きゆうれき)の三月三日ですので今の暦(こよみ)ですと四月のはじめごろで、ちょうど桃の花ざかりのときにあたりましたから「桃の節句」とも呼ばれました。

 この節句行事は古くは京都の貴族(きぞく)の間で女の子が「ひな」をかざって遊ぶ日とされていましたので「ひな祭り」ともいわれました。江戸時代は武士やゆたかな商家の間にもこの節句行事が広まり、この日に「おひなさま」をかざって女の子を祝うのがたいそうはやるようになりました。

 そこで「ひな人形」をつくる人びとが各地にふえてきましたが、なかでも越谷は早くから「ひな人形」の産地として知られていました。そして越谷でつくられた「ひな」は「越ヶ谷ひな」と呼ばれ、越谷どくとくのとくちょうある「ひな」でしたので、たいそう人気をあつめ各地に盛んに出荷されました。「ひな」の種類は桐の箱におさめられた三段の「段びな」、あいきょうたっぷりな「ねりびな」、優雅(ゆうが)な衣をつけた「一文びな」の三種でしたが、これら「ひな」を商う家は安政年間(一八五四~六〇)で実に一四軒を数えていました。

 この「越ヶ谷ひな」は明治に入っても盛んであったようで、明治八年(一八七五)の調査による「武蔵国郡村誌」には、越ヶ谷の「ひな人形」は当時二万一三五〇個を産出していたと記されています。その後西洋人形が入ってきたえいきょうで、人びとの好みも大きく変わり、「越ヶ谷ひな」はだんだんつくられなくなって、ついにはまぼろしの「ひな」になってしまいました。ところがこの「越ヶ谷ひな」は最近発見され復元(ふくげん)もされていますので、みなさんの目にもとまるようになりました。

 今はごうかなひな人形がふつうですが、こうした昔のひなも素朴(そぼく)でよいものですね。

復元された越ヶ谷段雛