三野宮卯之助(さんのみやうのすけ)

192~193/236ページ

原本の該当ページを見る

 越ヶ谷久伊豆神社本殿の右がわの木立のなかに、台座のうえにタマゴ形の力石が置かれています。これには「五十貫目(一八七キログラム)、天保二年(一八三一)四月七日、三野宮卯之助これを持つ」ときざまれています。三野宮卯之助がこの五〇貫目の石を持ちあげたということです。このような力持ちである三野宮卯之助とはどのような人でしょう。

 卯之助は文化三年(一八〇六)現在の越谷市三野宮の向佐家に生まれました。幼いときから体が小さくて虚弱(きよじやく)な体質でしたので、子どもたちが集まって競技(きようぎ)する力くらべではいつも一番びりでみんなから馬鹿にされていました。卯之助はこれをくやしく思い、もうれつに練習にはげんで体力を身につけ、やがて江戸方を代表する力持ちになりました。

 そして卯之助は力持ちの仲間と一座(いちざ)を組んで、力持ちの見世物興行(こうぎよう)を始め、諸国をまわって歩きましたが、たいそう人気をあつめたといいます。その演(だ)しものは写真にみられるように、なん俵もの米俵を持ちあげたり、人馬をのせた舟を足で持ちあげたり、誰もできない芸当をやってのけましたが、将軍にも御成り先でご覧(らん)に入れたこともあったといいます。

 この間に卯之助の名がきざまれた力石が、江戸深川の八幡神社、鎌倉の鶴岡八幡宮、信州(長野県)の諏訪(すわ)神社などに残されています。こうして諸国を巡業して歩いた卯之助はどこで死亡したか不明ですが、卯之助の位牌(いはい)によると、嘉永七年(一八五四)七月八日と記されているので、四八歳で亡くなったのがわかります。伝(つたえ)によると、日本一の力持ち競技で卯之助に敗(やぶ)れた競争相手によって毒殺されたともいわれます。ともかく日本一の力持ちが越谷にいたということは、わたしたちの自慢の一つにもなるでしょう。

三野宮卯之助の興行広告