寺子屋(てらこや)

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 江戸時代子どもたちの教育は、お寺や個人の家で師匠(ししよう)と呼ばれた先生が個人教授(こじんきようじゆ)をしていました。これを寺子屋といい生徒を筆子(ふでこ)と呼びました。科目(かもく)は「読み書きそろばん」といわれたように算数や国語が主なものでしたが、習字が基本的(きほんてき)な科目でした。これは字を上手に書くというばかりでなく、墨のすり方や書くときの姿勢、さらに書きながら文字や地名などをおぼえさせるという、さまざまなねらいがあったようです。

 たとえば越谷の手習いの本には「東の方は大相模、真大山不動尊、見田方・南百(なんど)・飯島や、伊原の刈穂(かりほ)麦塚に」などと地名をおりこんだ手習い書などがあります。こうして社会生活に必要な知識や道徳(どうとく)を自然に学ばせていたわけです。

 こうしたなかで先生と生徒の関係はきわめて親密(しんみつ)であったようで、師匠が死んだりすると、もと教え子であった人びとが先生の墓(はか)をたてて、その徳をしのぶというならわしがありました。わたしたちが墓地でよくみかけます墓の台石に「筆子中」ときざまれている石塔(せきとう)がそれです。

 越谷地域の筆子による墓はその多くが僧侶(そうりよ)のものですが、名主(今の村長)や医師などのものもたくさんみかけられます。この墓の台石には墓をたてた教え子の名がきざまれていますが、多いものでは一〇〇名以上の名がきざまれているものもあります。

 みなさんも墓石をしらべ「筆子中」とある墓石をさがしてみませんか。

大吉徳蔵寺墓地の筆子が建てた墓