綾瀬川

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 綾瀬川はもと足立郡加納村五丁台(現桶川市)から荒川と分かれた荒川(元荒川)の派川でした。古代は荒川の主流であったとみられ、武蔵国足立郡と埼玉郡の境界でした。この綾瀬川は流路が昨日はあちら、今日はこちらと不安定なところから「あやしの川」とも呼ばれていました。

 江戸時代の寛永六年(一六二九)という年に関東代官伊奈半十郎忠治の手で荒川が、熊谷の久下という所から入間川筋に付け替えられました。それから熊谷からの荒川は元荒川と呼ばれるようになりました。この流路の改修で綾瀬川の水量は激減(げきげん)しましたが、流路は安定し、沼沢地であった所も新田に開発されました。これとともに、極端に蛇行していた河道は、その後人工的にしばしば改修されていきました。

 西方村(越谷市)の「旧記」絵図によりますと、蒲生地先から槐戸(さいかちど)、谷古宇(草加市)、柳宮、西袋(八潮市)を曲流していた綾瀬川(古綾瀬川)が直道に改修されたのは寛永のころとありますが、恐らく寛永末年(一六三八~)ごろと思われます。

 また、内匠(たくみ)(足立区)から久左衛門新田に曲流し中川に合流していた河道が、内匠(たくみ)村から小菅村(葛飾区)まで新川が掘られたのも同じ時期といわれます。以来、綾瀬川は内匠から新旧二筋に流れましたが、延宝八年(一六八〇)小菅から隅田村まで直道の新川が掘られるに及び、久左衛門新田筋の流路は内匠で締め切られ、用水取水のための堰止(せきと)めは禁じられることになりました。これが綾瀬川舟運の隆盛(りゆうせい)につながったのです。さらに享保十二年(一七三二)西袋から内匠に至る逆S字型の曲流が直道に改修され、ほぼ現在の綾瀬川の流路が形づくられました。

 現在の綾瀬川は最も汚(よご)れがひどい河川の一つにあげられていますが、昔はとくに景観(けいかん)のすぐれた清流の一つに数えられていました。享保十八年(一七三三)加藤敬豊の「本所両やどり」の一節には「綾瀬川という川あり。錦藻という浮草の波のうねうね茂るさまは、小野小町の歌が思い出される。これに及ばぬながら綾瀬川を詠(よ)んでみた。〝ゆく水の 波織りかくるあやせ川 かわの名しるし見ゆる錦藻(にしきも)〟。錦藻という浮草は小さな苔(こけ)のような草で、秋の初めから春の半ばまで紅(くれない)の色つけて水の面(おもて)錦を張るように見えるので錦藻という」などと記されています。

 また、化政期(一八〇四~三〇)に江戸近郊の地を遊歴(ゆうれき)した釈大浄(しやくだいじよう)は、その著「遊歴雑記」のなかで綾瀬川の情緒(じようちよ)に富んだ風情を詳細(しようさい)に記していますが、ことにこの川の両岸には小さな赤い豆がにが群(む)れをなして、岸辺の穴を出たり入ったりしているのが印象(いんしよう)的だ、などと述(の)べています。美しい錦藻や清流に遊ぶ赤がにが再び綾瀬川に戻ってくるのはいつのことでしょう。

草加の松並木(昭和のはじめころ)