越ヶ谷町の大火事

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 秋も終りますと冬に入り、木枯(こがらし)が吹き荒れるなど寒さがきびしい季節になりますが、この冬から春にかけては火災が多くなるときでもあります。ことに家並(いえなみ)がたてこんでいる越ヶ谷町では、明治時代針屋火事と芋金火事と呼ばれた二度の大火事がありました。

 このうち針屋火事は明治七年(一八七四)十月二十日の夜、しかもみんなが寝入っているさいちゅうの午前二時ごろ、越ヶ谷本町の針屋さんから火がでてもえひろがりました。ことにこの夜ははげしい北風で、火の勢いはものすごく、日光街道にそった越ヶ谷町の大半の家は火の海につつまれ、さらにとなり村の瓦曾根にまで、もえひろがりました。

 人びとは着の身着のままで外にとびだし、元荒川の堤にたどりつくのがようやくでした。老人や子どもの手をひいて土手にたどりついた人びとは、火事を消すどころでなく、ただぼうぜんともえくずれていく町のすがたをみつめるばかりでした。

 このとき越ヶ谷町で全焼した家は三一五戸、土蔵が八六棟(むね)、物置が十八か所、お堂が二軒、そして焼死者が二人と、けがした人も多数にのぼりました。当時越ヶ谷町の総戸数は五八九戸でしたので、全戸数の五四パーセントが焼けたわけです。また瓦曾根村の総戸数は一三一戸で、このうち焼けた家は八〇戸でしたので、焼失戸数は総戸数の六一パーセントにあたります。越ヶ谷、瓦曾根ともその大半が焼失したわけです。

 この大火の様子はただちに県庁に報告されましたが、県庁ではこれに対し被災者(ひさいしや)の救済(きゆうさい)にあたりました。この火災で家や財産をすべて失った家は二一四軒で八九七人を数えましたが、このうち五八三人は老人や幼児でした。この人びとに対しては男一人に一日米三合あてで一五日分、老人や幼児には米二合あてで一五日分が無料で支給されました。しかし大きな痛手をこうむった越ヶ谷や瓦曾根の人びとは、これに屈せずすぐに町の復興(ふつこう)にあたりました。昔もそうですが、今でも火災はもっともこわいものの一つです。気をつけることがかんじんですね。

さしえ・大徳美智子