明治のはじめころの学校

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 日本の公学校は、明治五年(一八七二)八月の学制頌布(がくせいはんぷ)によってはじまります。この学校設置令(せつちれい)によって越谷の村々にも小学校が設けられていきましたが、その校舎ははじめはほとんどが寺院の座敷(ざしき)が利用されました。このときの小学校の生徒は、六歳から九歳までが下等小学、一〇歳から一三歳までが上等小学といわれ、上・下とも八級に分けられ六か月ごとに進級するしくみになっていました。

 授業は朝八時からはじまり、午後三時まで、一時間の休けい時間を入れて六時間でした。このうち科目割りは八時から九時までが読み方(読本)で一週間に六時間、九時から十時までが算術(算数)で同じく六時間、十時から十一時までが綴字(作文)で同じく六時間、十一時から十二時までが、修身と単語あんしょうで、このうち修身が一週間に二時間、単語あんしょうが一週間に四時間、十二時から一時までが休けい時間、そして一時から三時までの二時間が習字で一週間に十二時間という時間割りでした。

 また当時の学校規則を培根(ばいこん)学校(後の大相模小学校)の規則でみますと、その主な要旨(ようし)は次のとおりです。まず登校したとき先生にあいさつしますが、さらに始業と終業のときは杓子木(ひようしぎ)をあいずに先生に拝礼すること、必要なもの以外は持ってこないこと、また忘れ物をしないこと、喧嘩(けんか)や口論はしないこと、大便は授業前か放課後にすること、授業中わき見をしたり、おしゃべりしないこと、校内は静かに歩き休けい時間でも高声をだしたりしないこと、などとなっていました。

 また教科書は、江戸時代から用いられていた「住来(おうらい)物」や文部省が作った「単語編」などが使われていましたが、埼玉県で作った「日本地誌略」など、郷土のことを教える教科書も用いられていました。

 やがて文部省が発行した全国共通の教科書が用いられるようになりましたが、これを国定教科書といいます。

明治初期埼玉県発行の教科書地誌