越谷のキリスト教のはじまり

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 江戸時代キリスト教はキリシタンと呼ばれ、かたく禁じられた宗教で、その信者はきびしく処罰(しよばつ)されました。明治になって信仰(しんこう)の自由が許されましたので、外国からキリスト教の宣教師(せんきようし)がたくさん日本にやってきました。このなかにムーア(モール博士)というアメリカの宣教師がいました。

 ムーアは明治十六年に日本に来て、東京日本橋に教会堂を建設し、東京をはじめ川口・鳩ヶ谷・岩槻などを中心に、主に道ばたでの説教をして歩きました。ある日鳩ヶ谷で説教をしていたとき、荷車に米をつんで鳩ヶ谷の市場へ運んでいた越巻村(現新川町)の吉田兼三郎という農民が、このキリストの教えを聞いてたいそう感動しました。

 家に帰った吉田さんは、早速村の人びとをたずね、宣教師を村に招くように、といてまわりました。そして明治十七年六月十五日、ムーア自身が越巻村をおとずれ、吉田さんの家にとまりこんで伝道を続けました。このとき吉田さんをはじめ越巻村のなかで四名の人が洗礼(せんれい)をうけて信者になりました。これが越谷のキリスト教のはじまりです。

 当時、ながい間のならわしから多くの人びとはキリスト教をこわがったり、けぎらいして、教えをうけ入れようとはしませんでした。こうしたなかで吉田さんたちはキリスト教に入信しましたが、この入信は日本のなかでもたいそう早い方でした。それだけに勇気がいることだったと思われます。

 その後吉田さんらは越ヶ谷町に出て伝道をはじめましたが、明治二十二年には九名の人が洗礼をうけ、越ヶ谷教会の設立式が行われました。教会堂ははじめ空家(あきや)を借りていましたが、大正十三年越ヶ谷停車場前通りに独立した越ヶ谷教会堂が建てられました。この教会堂は昭和四年火災にあったため、新たに越ヶ谷御殿町(現在地)に教会堂を建てて移りました。

宣教師ムーア博士