越谷市の人口

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 江戸時代の越谷には、越ヶ谷・大沢の二つの町と、平方・大泊など四七の村がありました。もとの大字(おおあざ)にあたります。その後明治二十二年の四月に四八(明治四年から恩間新田が独立した村になっていました)の村が八つの村に統合(とうごう)されて二町八か村になりました(川柳は入れていません)。この二町八か村を合わせた当時の戸数は四五六九戸で、人口は二万八七七二人(明治二十五年現在)でした。

 この戸数・人口は、およそ四五年後の昭和十年には五六八四戸、三万〇七五八人を数えましたが、人口では二〇〇〇人弱の増加でしかありません。これは子供が生まれたとか、分家をしたとかいう増加で、自然増といいます。その後日本は戦争になり、東京などからの疎開(そかい)で戸数・人口ともいくらかふえました。これを社会増といいます。

 そして昭和二十九年十一月三日、二町八か村が合併(がつぺい)して越谷町をつくったときは七八二〇世帯、四万四八一二人を数えました。ついで昭和三十年十一月三日、いったん草加町に合併した川柳村のうち麦塚・伊原・上谷が境界を変更(へんこう)して越谷町に入りましたので、八一四一世帯、四万六八三八人の戸数・人口をもつ町になりました。当時戸数・人口では日本で二番目に大きな町でした。

 そして昭和三十三年十一月三日には市制が施行され県内では二二番目の市となりました。このときは八三四二世帯、四万七八九七人の戸数・人口を数えました。その後戸数・人口は少しづつふえ続けてきましたが、急激(きゆうげき)にふえだしたのは昭和四十年からで、毎年一万人以上の人口がふえ続け、昭和五十年には人口一八万八七七三人を数えました。これは十一年間で、一年平均一万二〇〇〇人づつふえた計算になります。

 でも五十一年からはこうした急激な増加はなくなり、落ちつきをみせているようです。現在越谷市の世帯数は六万九〇六八、人口は二三万四八九〇人(五十八年一月一日現在)です。これは昭和五十年から現在までの七年間で毎年平均約六五〇〇人の増加という計算になります。

 どうして市の人口がこのようにふえたり、にぶったりするのか、皆さんもいろいろとしらべてみるのも勉強のひとつといえましょう。

昭和33年ごろの蒲生の新興住宅