銀行通りとも呼ばれるこの市道を駅から三分程東に向かうと日光旧街道に出る。この旧街道に沿って大沢の町外れまでが江戸時代の越ヶ谷宿である。越ヶ谷宿の成立は、慶長七年(一六〇二)、徳川氏による宿駅制度により奥州街道第二次の伝馬継立所として新たに街道沿いに家並みが造成されたことにはじまる。はじめ奥州街道は千住から大原通りに出て、八条・別府・四条・見田方・西方・瓦曾根の利根川筋(現中川と元荒川通り)の自然堤防上をつたって越ヶ谷に入り、通称観音横町と呼ばれた道から越ヶ谷の中町に入ったといわれる(「越ヶ谷瓜の蔓」)。
また越ヶ谷宿のうち越ヶ谷町は、越ヶ谷郷のうち四町野・花田・瓦曾根などの住民が、街道に面し軒を接して区画された町割りにしたがい新たに造成した人工集落で、越ヶ谷郷の郷名をとり越ヶ谷町と名付けられた。当町は本町・中町・新町と三つの行政区に分かれていたが、このうち新町はその町名の通り、新しく造成された町で、すくなくとも寛永初年頃の造成とみられる。すなわち寛永七年(一六三〇)千住から草加を経て越ヶ谷に至る新道が、奥州街道の公道に指定され、同年千住、越ヶ谷両宿の中間宿として草加宿が成立している(「草加の歴史」)。以来越ヶ谷宿は奥州街道(後の日光街道)第三次の宿場になったが、交通上の要衝として目ざましい発展をみた。
この宿場の繁栄をもたらせた町を南北に貫ぬく日光街道の道幅はおよそ七メートル、江戸時代は幕府の直轄下に置かれた五街道の一つで、第一級の道幅を誇っていた。ことに古くから開かれていた二・七日の六斎市には、この公道をはさんで多くの出店が立ちならんだ。この日には近郷近在の村々から穀類を中心とした商品荷が運びこまれ、その取引上の相場が立てられるという重要な市場機能をそなえていた。つまりこの六斎市の開催により越ヶ谷町は近郷商圏の中心になっていたが、明治に入り、近代的な流通機構が整備されるにつれ市場機能は衰退の一途を辿った。
とくに明治の半ば頃から米穀商組合、肥料商組合などといった各業種の組合が成立し、市場と関係なく商取引が日常化されるに至り市場機能は全く失われた。これに変り市日には日用雑貨を主とした行商人の出店が市を賑わすようになった。やがて昭和三十七年、日光旧街道の交通量増大から、市日の出店は道路交通法の規制をうけ、三〇〇有余年の歴史をもった日光旧街道の〝ショバ〟は駅前の横道に移された。こうして現在は主として庭木類や下着などの洋品を扱う出店がわずかに六斎市の名残を止めているにすぎない。