新町修験澄海寺

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 さて銀行通りと呼ばれる市道から日光旧街道に出て、そこを右に折れ約二〇〇メートル程南に下がると瓦曾根に接した越ヶ谷宿の入口となる。ここから旧街道を日光方面に向かって北進し、現在の越ヶ谷宿越ヶ谷町の面影を偲んでいこう。まず宿外れにあたる左手の露地を入ると栃木相互銀行越ヶ谷支店の前に出る。ここで舗装された道路が二又に分かれるが、突き当りの三角地点に痛みのひどい古びた堂舎がある。地元ではこの堂を薬師堂と称し、観音や不動の縁日には老婆を中心とした講の人びとによって念仏講が執行されているが、江戸時代は澄海寺と称した羽黒行人派の修験寺院跡で、この辺りは一円寺の境内地であった。

 堂前には寛政七年(一七九五)瓦曾根村橋本氏奉納による小さな御手洗石が一つだけ残されている。左手の道の傍ら銀杏の木の下に石塔群がならんでいる。すなわち宝暦二年(一七五二)と寛政三年、それに年代不詳の青面金剛像が刻まれた庚申塔、また地蔵像が刻まれた墓石が数基、外に文化元年(一八〇四)造塔による六地蔵塔が建てられている。その傍らに文政十年(一八二七)秋葉講中寄進による「秋葉大権現」の石塔があり、その台石には寄進者の名が刻まれている。なかには飴屋平右衛門・八百屋武兵衛・紺屋甚兵衛・米屋源助・豆腐屋源右衛門・鍛冶屋幸次郎・佃屋宇兵衛・肴屋長次郎・灰問屋治郎右衛門などその商売を屋号とした名や、また江戸屋長兵衛・谷中屋清吉など地名を屋号とした名がみられ、これらを読みとっていくのも楽しいものである。この塔の傍らには、格子戸づくりの堂舎があるが、堂内にはニメートル余に及ぶ石の地蔵が安置されている。地蔵像の造塔年代は不詳ながら、この堂の傍わらに、明治二十九年二月、越ヶ谷共栄講による「地蔵尊再建記念碑」が建てられているので、この堂内の巨大な地蔵尊はこのとき奉納されたものであろう。

 この先の道は、昭和四十四年に開業したシヨッピングセンター「イトーヨーカドー」へ通じる道であり、人の流れが集中する越谷の中心街になっているが、再び日光旧道に戻ろう。旧道に戻った処の突当りは道幅の広い道路になっている。この道は吉川方面に通じる県道であるが、この右角に不動像を頭に戴いたおよそ一・七メートルに及ぶ道しるべの石塔が建っている。これには「是より大さがミ道」とあり、寛保元年(一七四一)十一月、江戸新乗物町講中とあるので、江戸の乗物講中による寄進であることが知れる。現在は道幅も拡げられ自動車の往来がはげしくて昔日の面影はないが、かつては大相模の不動尊に参詣する旅人が通った古くからの大相模道の一つであったに違いない。

新町薬師堂境内の地蔵堂
昭和33年の越谷商店街