旧道を北進すると道幅が狭く、しかも歩道車道の区別がないだけに自動車の往来が気になるが、両側に軒を接した街並を注目しながら行くと、様々な家構えの店舗が目につく、中には昔ながらの店構えを残した家、近代的な店舗に改造した家、あるいは格子戸構えの仕舞家(しもたや)などもあり、統一のないアンバランスな違和感を与えるが、どことなく日光街道の宿場町を偲ばせる雰囲気が感じられる。それはこの街並の住民が古くからの人びとによって構成されているという、そこはかとない臭いとでもいえよう。これがこの旧街道の一つの特徴ともなっている。
江戸時代この町並みは六間(一〇・八メートル)以上の間口をもった一二〇軒の伝馬役屋敷と、間口六間以下の歩行役屋敷二十一軒の株立てによって構成されていたが、現在この間口は何軒にも分割されて、それぞれ間口が狭くなっている。このうち新町には小説家沙羅双樹の生家である煙草卸商で栄えた大野家、米穀肥料商の永楽屋田中家、味噌醸造の井橋家、明治から昭和の初めにかけ、その雇人数十人を数え平塚に支店をもった呉服商〝万寿屋〟の会田家など大間口を有した商家が軒をならべていたが、今はその面影を偲ぶよすがはない。