新町八幡神社と越ヶ谷町の文人

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 さて、新町を横断する駅前通りの市道(銀行通り)を横ぎり、暫らく行って数軒の新興飲食店が立ならぶ左手の露地を入ると突当りは新町の鎮守八幡神社である。最近までは古木が生い茂った荘厳な境内地であったが、古木はすべて切払われ、その一部は飲食店や駐車場になっている。まず花崗岩の鳥居をくぐると、左手に天和二年(一六八二)在銘の小さな御手洗石があり、正面の広場の中に柵を囲らした神殿だけが都市化の波に取残されたように建っている。この神殿の前には文政十二年(一八二九)若者中によって寄進された石の御神燈が一対、金網の柵に囲われて置かれている。またその前に「嘉永五年(一八五二)神奈川龍吉持之」と刻まれた力石と「会田石」と刻まれた力石が置かれている。例年九月十四日の祭礼には、江戸時代よりの伝統をもった子供角力の神事が執行され、町内の名物の一つになっているが、現今久伊豆神社の大祭が執行される年は子供相撲は行われない。つまり一年おきとのことである。

 八幡神社の参拝を終え再び旧道を進むと間もなく埼玉銀行越ヶ谷支店の前に出る。現在市内にある銀行では埼玉信用金庫に次ぐ昭和三十年代進出の古い銀行である。この横の道が先述のとおり大正九年に造成された駅前通りであるが、この銀行の裏手に『物類称呼』を著わして方言学の祖といわれ、また戯作者滝沢馬琴の俳諧の師ともいわれている法橋越ヶ谷吾山(一七一七~八七)の生家会田家がある。丸に三本笹の紋どころは、越ヶ谷の開発領主会田出羽家の紋どころと同じであり、出羽家一門につらなる旧家であるのは確かである。それから少し行くと、幕末の国学者平田篤胤の代表的な著作『古史徴』の序文を書いた篤胤の門人山崎篤利の生家がある。この家は江戸時代から水油や穀類を商い、「油長」の屋号をもって知られた越ヶ谷の有力商人の一人であったが、今は〝しもたや〟になり、格子戸構えの家も最近近代建築の家に建てなおされた。当家には篤胤の書簡や、篤胤の添削した書本などが残されている。

 ここから少し進むと街道を横ぎる露地がある。この道はかつて赤山街道あるいは鳩ヶ谷街道と呼ばれ、足立郡赤山陣屋(現川口市)や同郡鳩ヶ谷宿(現鳩ヶ谷市)に通じる道であり、江戸初期の奥州街道につながる古道でもあった。この十字路の左角は、現在薬局であるがもと伊勢屋と号した幕末期の有力商人有滝家で、今は薬局の裏手にその屋敷があり、古道に沿った黒塀が昔の家構えの面影をとどめている。

新町八幡神社