越ヶ谷宿大沢町

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 大沢橋を渡ると大沢町である。大沢町も新旧の家が入交った直線上の街並であるが、越ヶ谷より人通りの少ない落着いた商店街をなしている。大沢の地名は、当地の住人深野源七郎が、長元三年(一〇三〇)六月、富士山に登拝し、大沢の滝から五色の光をはなつ影向石を持ち帰り、この石を神体に浅間宮を勧請したことから大沢の地名がおこったと伝える。また一説には当地は荒川(現元荒川)に臨んだ沼沢地で、大小幾多の池沼が散在していたことから大沢と名付けられたともいう。古い時代は下総国下河辺庄西新方庄に属したが、戦国期武蔵国に改められ、一名新武蔵のうち大沢村とも呼ばれた(「大沢猫の爪」)。

 江戸時代は越ヶ谷宿のうち大沢町と呼ばれたが、はじめは越ヶ谷町の合宿として成立した人工集落で、住民の多くは同町の在所鷺後や高畠から移住し、幕府の定めた地割りにしたがって街並を形成させたといわれる。町内は日光方面を上にして上宿・中宿・下宿に区画されていたが、行政区としては一町であり、伝馬役百姓・歩行役百姓合わせて七十五軒の株立てで構成されていた。もっとも時代が下がるにつれ地借・店借と称され、町政にも参加を許されず、身分的にも差別をうけた屋敷株をもたない住民がその多数を占めるようになったのは越ヶ谷町とも同様であった。また大沢町は在郷商圏の中心地越ヶ谷とは異なり、そのほとんどが旅籠屋や茶店を渡世とした交通上の町で、旅人たちで賑わった所である。

 越ヶ谷宿の旅籠屋数は、本陣・脇本陣を含め天保年間五十七軒を数えたが、そのほとんどが大沢町に集中していた。このうち主な旅籠屋を挙げてみただけでも、大松屋・柏屋・橘屋・木香屋・若よし屋・玉屋・武蔵屋・秋田屋・下妻屋・豊田屋・升屋・叶屋・亀屋・若松屋・富士屋・戸倉屋・槌屋・小川屋・大黒屋・稲葉屋・小松屋・相模屋・中屋・住吉屋・江戸屋・万屋・難波屋・千歳屋・虎屋・羽生屋などが軒をつらねていた。しかし伝馬制が廃止された明治期以降は、旅人も激減し、そのほとんどが転廃業して今は古くからの旅籠屋は一軒もみあたらない。

 江戸時代このように旅籠屋が集中していた大沢町であったが、このうち飯盛旅籠と称せられ、旅人に対し特殊な接待をする飯盛女を置いた旅籠屋は、橋を渡った右手の一角を中心に下宿に集中していた。その数は天保年間二十三軒を数え日光街道のうち干住宿を除いてはもっとも賑わった花街を形成していた。明治期以降も引続き特飲街として著名であったが、昭和三十一年売春禁止法の成立以来すべて転廃業した。それでも最近までは芸妓屋・料理屋の二業組合が存在し、元荒川の流れに紅灯の影をゆらしていたが、それも今は語りぐさの一つになった。

 また橋たもとの左手に〝うどん屋〟という料理屋が今でも営業を続けているが、この店は江戸時代からの由緒を伝える川魚料理屋の一つである。このほか越ヶ谷には明治から大正にかけて繁昌した三階楼の加賀屋、天ぷらも扱った天芳屋・元芳屋、大沢に芳村屋・山本屋などの川魚料理屋が川べりに軒をつらねていた。当時は付近の元荒川で獲れた鯰や鰻・鮒・鯉そのほかどじょうなどが川魚料理の材料になったとみられるが、川の汚濁と魚類の減少にともない、繁昌を誇った川魚料理屋の多くはいつしか姿を消していった。

 さてこの川沿いから五〇メートルほど進むと、左手に天明元年(一七八一)から越ヶ谷宿本陣を勤めた大松屋福井家の本陣屋敷があったが、今は裏手の屋敷構内に家を新築し、表通りからこれを窺うことはできない。当家には本陣役として使用した陣笠や本陣の宿札、そのほか「往還御用留」「大沢猫の爪」「越ヶ谷瓜の蔓」といった本陣記録や地誌類が数多く保存されている(現在県立文書館保管)。

昭和33年の大沢町の町並手前は大沢橋
明治初期の福井本陣