ここから右手に街道に対しT字型に通じる一方通行の道路があるが、ここはもと猿島街道あるいは野田街道と呼ばれた古道につながる大沢町の横道であった。また左手の細道は新らしく造成された市道であるが、それから数軒先の露地は真言宗弘福院に通じる道であり、東武鉄道の陸橋をくぐると正面が弘福院になる。
山門がないがブロック塀に囲まれた入口を入ると、明治三十八年造塔になる「八十八ヶ所新四国弘法大師掛所、観世音菩薩」と刻まれた石の角塔が目につく。これにならんで宝永六年(一七〇九)の文字庚申塔、享保六年(一七二一)と延宝八年(一六八〇)の青面金剛像、正徳二年(一七一二)の百万遍供養塔、それに六地蔵塔などが一列にならべられている。正面には昭和三十二年造立のそびえ立つような地蔵尊像が建てられており、その回りは無縁仏墓石群になっている。その右手は本堂で、堂前には明和四年(一七六七)江戸柳橋渡辺伝左衛門らの寄進になる石の大きな水盤が置かれている。本堂の横手は現在幼稚園になっており、賑やかな園児の声が境内にこだまする。
左手の墓地に入るとまず目につくのは、延享五年(一七四八)大沢町島根宗弥寄進による巨大な宝篋印塔である。これは寛保三年(一七四三)七月、弘福院観世音開帳の際、島根宗弥が頭取で花火興行が行われたが、これがもとで本堂庫裏とも残らず焼失する火災になった。そこで島根宗弥は金一千両を投じ、弘福院諸堂を再建したが、この竣工を記念して造立された塔である。その後弘福院は天明四年(一七八四)再び火災に遭って諸堂はすべて焼失したが、宝篋印塔だけは今に残って当時を偲ばせてくれる。墓地の中の墓石は比較的少ないが、なかには「榊うたふ よい日そ我も 四万津国」という辞世の句が刻まれた墓石などもある。
再び街道に戻り暫く行くと、街道からは見えないがもと旅籠屋若松屋の巨大な土蔵などが残されており、露地に入ると横手からこれらを窺うことができる。この辺りの街道の右手の一角は、もと大沢町の世襲名主兼、問屋を勤めた江沢家の大屋敷であったが、今はその大間口は細分化され、様々な家になっている。ただこの先に大黒屋の屋号を称した黒田家の格子戸づくりの〝しもたや〟が、江戸時代の土蔵づくりの面影をわずかに偲ばせている。また左手には明治二十五年創立を伝える天理教会堂などもあるが、この先に区画整理の終った北越谷の新興住宅地に通じる道がある。これから二、三軒先の露地が真言宗照光院へ通じる細道である。
朱塗りの山門前に大沢小学校創設の地と刻まれた昭和五十二年建立の碑と、その奥に明治三十八年建立になる「八十八箇所新四国第二十八番、阿弥陀如来」と刻まれた観音霊場巡りの角石が建っている。山門をくぐるとすぐ左手に、盛土の上に建てられた鐘撞堂があり、その周囲に無縁仏墓石が幾重にも置かれている。この中に薄幸な飯盛女の供養墓石が交っているそうであるが、重なるように林立しているのでこれを探すことは困難である。正面はひっそりとした構えの本堂であるが、それに続く庫裏に沿った横道を入ると墓地である。入口に承応元年(一六五二)在銘の六地蔵を陽刻した庚申講中による石塔と、万治二年(一六五九)在銘の六観音を陽刻した念仏講中による石塔がならんでおり、それに向かい合わせて筆子中による墓石がまず目につく。この墓石には樹光院宝路蜃兆居士その他夫人の法号が刻まれ、「降る雪は 面しろいもの 死出の旅」の辞世の句が記されている。この墓石にならび、文政元年(一八一八)在銘の自然石墓石がある。同じく筆子中によるもので法光院観海雪路居士とあり、俗名は原田雪路、ここにも「桐一葉 無理いふましと おもひけり」との辞世句が刻まれている。この墓石前の小道をはさんで向かい側が越ヶ谷宿本陣大松屋福井家の墓地である。このなかに本陣を勤める傍わら、幾多の本陣記録や地誌類を書残した越ヶ谷宿の文化人福井猷貞の墓もある。没年は文政五年(一八二二)二月、法名は賢照院泰与猷貞居士という。これら墓石の中にも「居こころの よき学の戸や 秌(秋)の風」といった辞世句がみられるが、このほか林立する墓石群の中にも、「かせそよく うちハゝいらす ひとねいり」などの辞世句が目につく。江戸文化の影響をうけた宿場町の風流な匂いを感じさせる墓地の一つといえよう。