大沢町香取神社

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 照光院を出て街道を少し行き、右手の露地に入って行くと大沢町の鎮守香取神社の参道前に出る。この香取社は宿場町大沢の成立にともない、寛永年間その親里の一つである鷺後の香取社を当所に移して勧請したと伝える。入口に文化三年(一八〇六)建立による石の鳥居がある。一の鳥居である。台石に大木弥治右衛門・深野弥市・小堤半右衛門などその寄進者の名が刻まれており、大沢町の当時の有力な住人を知る手がかりを与えてくれる。ここから石を敷きつめた長い参道の両側には、文化八年の御神燈をはじめ宝暦年間の狗犬、文化八年の敷石供養塔、安永九年(一七八〇)の狗犬、文化六年・同八年・同十二年の御神燈が整然とならべられ、文政六年(一八二三)建立になる石の二の鳥居に至る。

 二の鳥居をくぐると再び参道をはさみ、天保十三年(一八四二)・文化八年・文政九年の御神燈が建ちならび、左手に寛政三年(一七九一)奉納の大きな御手洗石と、天和二年(一六八二)の古い御手洗石が置かれている。さらにその先には伊勢太々講中と、寛政元年大沢町世襲名主江沢太郎兵衛昭鳳奉納の巨大な御神燈、そして拝殿前には文政六年寄進によるいかめしい狗犬が置かれており、江戸時代宿場町大沢の鎮守としてこの香取社はいかに住民から尊敬をあつめていたかを偲ばせてくれる。また拝殿右手の奥には、明治二十一年建碑による「故里長四氏記念碑」が建っている。この四氏とは明治初期大沢町治政の功労者であった島根喜兵衛・森川治郎兵衛・広瀬弥七・江沢鳳之輔を指すが、この碑にはその功績と履歴が刻まれている。

 このほか拝殿の左手広い境内地のなかに、古びた神楽殿が建てられているが、現在神楽は執行されないまま荒れほうだいになっている。当香取社の本殿は明治初期の再建を伝えるが、その奥殿は古い頃の建造物とみられる。ことに奥殿の四壁は、龍や鳥・高砂の翁・大黒天などをかたどった精巧な木彫で覆われ、その一枠ごとに柏屋弥平太などとその奉納者の名が刻まれており、江戸時代の建築であるのが確かめられる。なかでも奥殿裏側の木彫は、紺屋の労働作業をあらわしたもので、当時の紺屋の作業やその風俗を知りうる資料としても貴重な、かつ珍しい彫物といえよう。

 往昔はこの香取社周辺は、樹木の茂った場所であったが、現在境内地の西側は国道旧四号線が走っている。国道四号線のこの新道は、昭和初期の世界恐慌に際し、農村賑救事業の一環として造成されたもので、まず昭和六年千住地先延長五・ニキロにわたり、二五メートル幅の舗装新道が市街地を避けて造成された。次いで昭和八年には草加町瀬崎地先まで道路幅一五メートルの舗装道が完成、引続き昭和十年以降も草加町から新田村、続いて蒲生村から越ヶ谷町大沢橋きわまでの改良工事が進められたが、昭和十六年太平洋戦争の突入により工事は中断された。やがて戦後の同二十五年、日光街道沿線住民の強い要望により日光街道の改良工事が再開され、現在みられるような市街地を避けた新国道が造成された。これにより草加・蒲生・越ヶ谷・大沢などの市街地は、いづれも旧道・新道の平行した二本の道路が通じるようになり、街の様相はいちじるしい変化をみせたわけである。現在国道四号線は、足立区保木間からの草加バイパスに切り替えられたため、保木間から越谷間久里間の旧国道は「足立越谷線」と呼ばれる県道になったが、一車線のせいもあり、交通渋滞に悩む路線の一つになっている。

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