香取神社脇の日光新道を渡ると、真言宗光明院の前に出る。新道の造成までは日光街道から地続きの奥まった寺院であったが、今は通りに面して山門もない目立たない存在になっている。寺院の開基年代は不詳であるが、当院の過去帳には天文六年(一五三七)からの記帳が載せられていたといわれ、古くからの寺院であったに違いない。しかも江戸時代は鎮守香取社の別当寺で、寺勢も盛んなときがあったようである。通りに沿ったブロック塀の入口に、明治三十八年造立による「新四国二十九番 薬師如来 光明院」と刻まれた霊場巡りの標識塔が立てられており、僅かに寺の入口を示してくれる。
内に入ると右手に木小屋に収められている六地蔵像と、それにならんで異様な形態の石像が同じく木小屋に安置されている。この石像は塩地蔵といわれ、霊験ことにあらたかな地蔵として広く信仰を集めていたが、多くの信者から満願のつど頭から塩を供えられたので、塩によって石が溶け今のような形になったという。この塩地蔵の先は石塀に沿って無縁仏墓石がならべられているが、このなかに大沢町の世襲名主江沢家代々の墓石や、寛政年間より越谷地域に生花を広めた春輝庵一樹の供養墓石などもみられる。その左手は本堂と庫裏でその奥は墓地になっているが樹木は少なくからっとしている感じ、区画された新墓地も造成されているが、なかには寛永十六年(一六三九)在銘の宝篋印塔墓石や、江戸期の旅籠屋大黒屋の巨大な墓石などもみられる。
光明院を後にし、再びもと来た道を戻って街道を北進すると、道は信号のある十字路にさしかかる。この十字路の左手の道が東武鉄道北越谷駅に通じる駅前通りである。北越谷駅は明治三十二年東武鉄道の開通とともに設けられたもとの越ヶ谷停車場で、当時駅前通りは運送店や飲食店が軒をならべ、鉄道の乗降客や荷物の運送馬車で賑わったところである。その後大正八年越ヶ谷町に越谷駅が開設されてその駅名は、武州大沢駅と改められたが、さらに昭和三十二年北越谷駅と改称された。次いで昭和三十七年地下鉄日比谷線の相互乗入れの際その駅舎は改造されたが、東武鉄道では竹の塚駅とともに初めての架橋駅になったといわれる。この駅前通りから北へ進むと間もなく大沢町の町はずれとなり東武鉄道の踏切にかかる。帰りは北越谷駅から乗車するのが便利であるが、準急は停車しない。
なお日光街道は江戸時代参勤交代の大名行列や荷運びの駄馬人足、その他様々な通行人の往来で賑わったが、明治以降舟運の盛行や鉄道の普及などで旅人の通行は急激に減少した。この間旅人の便宜をはかるため、千住から粕壁間の日光街道に、ラッパの警笛を響かせながら鉄道馬車が走ったが、それは明治二十六年から同三十二年にかけてで東武鉄道開通時までの短かい期間であった。今の日光旧街道は自動車の往来のはげしい道になっており、宿場のたたずまいも次第にその面影を失ないつつあるが宿場町の匂いは充分感じとられる。現在大沢町は一丁目から四丁目までの町内会に分かれているが、最近各町内に神輿が具えられ、七月十四日、十五日の八坂神社(現在香取神社に合祀されている)の祭礼には町内を神輿がねり歩きその祭りは年々盛大さを増している。
越谷駅から北越谷駅までの行程およそ二・五キロメートル、自動車の往来が気になるが、宿場町越ヶ谷・大沢の面影を偲ぶには一度今のうちに歩いてみる必要のあるコースである。