越谷駅前通りを直進し、県道足立越谷線(旧国道四号線)に架せられた歩道橋を渡ると、昭和四十四年の新築になる鉄筋五階建の越谷市役所前に出る。この市役所横の道は元荒川堤防上につけられたかつての奥州街道の古道である。
この道を左に折れて進むと右手はいずれも官公庁舎の建ならぶ一角で、市役所をはじめ建設省江戸川工事事務所中川出張所及びその住宅官舎、それに越谷保健所・越谷土木事務所・越谷県税事務所・中川流域建設事務所など埼玉県の越谷地方庁舎になっている。
これらの敷地はもと瓦曾根溜井の河川敷で江戸時代六本木と称され、その堤防脇は犯罪者の所仕置場(現地の処刑場)になっていた。その後も溜井の敷地として葦などが生い茂る淋しい場所であったが、昭和四十年頃から埋立てられ前記の各庁舎が建設された。現在葛西用水路に沿った庁舎前の市道には水ぎわに柳の並木がつらなり、市民の憩いの場になっている。
さて元は堤防上の道であった市役所脇の古道を行くと、途中建設省中川出張所地先から左に折れる道がある。この道が堤防上の古道に続くかつての奥州街道で、越ヶ谷の中町に通じる道でありそこに集落があったので横町と呼ばれたが、道の傍らに浄土宗越ヶ谷天嶽寺持ちの観音堂があったため通称観音横町とも称された。
観音堂の入口には「新四国阪東二十七番札所 縁日毎月十日二十日」と記された立札がたてかけられている。境内に入ると左手の塀ぎわに享保六年(一七二一)の六地蔵像と、庚申講中による同年銘の青面金剛庚申塔、年代不詳の地蔵像塔、文政元年(一八一八)油屋吉右衛門奉納の観音像塔、明和八年(一七七一)の馬頭観世音塔、それに昭和十一年造立になる青銅の正観音菩薩像などがならんでいる。
瓦葺の屋根で扉や壁などが最近補修されたとみられる本堂の前には、宝永七年(一七一〇)在銘の水鉢が置かれており、これには下田徳右衛門など奉納者数十名の名が刻まれている。また右手には文化十年(一八一三)造立による馬頭観世音の大きな柱状型の石塔が建てられている。その右面には「大さがミ道」左面には「のだ・せうない道」と刻まれ、道しるべを兼ねている。これにならんで文政五年(一八二二)在銘の南無阿弥陀仏と刻まれた同じく柱状型の石塔が立てられている。この境内地はさほど広くはないが、ブランコなどが具えられ、平日は子供の遊び場になっている。
観音堂を辞し、もときた古道に戻って先へ進むと右手は柳町と称する新興住宅地である。ここも以前は柳原と呼ばれた元荒川の河川敷であったが、昭和二十七年、当時の越ヶ谷町役場がこれを埋立てて区画し、住宅地として分譲した所である。もとは越ヶ谷八景のうち「柳原の夜雨」とうたわれた情緒豊かな広々とした河原であったが、戦時中は元荒川べりの一角に防空監視所が設けられたこともあった。この柳町を南北に二分する形で一筋の流れが東西に貫ぬいている。この流れは用排水分離工事の一環として、昭和三十八年頃より新たに造成された葛西用水路である。
この用水路に架せられた橋の袂の左手の道は、越ヶ谷本町に通じる古道で、江戸時代日光街道境大橋(現大沢橋)修復工事の際は〝往還廻り道〟とも呼ばれ、日光街道の臨時の道筋に用いられたところである。この道の右手一帯は袋町と称し、もと越ヶ谷の開発領主会田出羽家の屋敷地であったが、慶長九年(一六〇四)荒川(後の元荒川)に面した一角が徳川家康の御殿地として提供され、その構内は御殿と呼ばれるようになった。橋を渡った左手一帯がその御殿地域である。暫く進むと元荒川に架せられた鉄筋の橋に出る。現在宮前橋と称されているが、もと寺橋と称された木橋で、昭和三十年頃まではこの辺りの元荒川は恰好の遊泳地であり子供達の公式の水泳場になっていた。現在は水が汚れ水泳場であった頃の面影はない。
この橋の袂の左手の道を行くと、最近近代的な建物に新装なったキリスト教越ヶ谷教会と同教会経営の幼稚園前に出る。明治十七年越巻村(現新川町)の農民吉田氏らが、キリスト教牧師グリングの説教に感動して洗礼をうけたのがはじまりで、越谷にキリスト教伝道の基礎がきずかれたという由緒を伝える教会堂である。また当教会付属の幼稚園は、大正十三年五月の創立になるものであり、当地域ではもっとも古い歴史をもった幼稚園でもある。