越ヶ谷御殿と会田出羽

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 この教会堂の手前の右手にある露地を入り、石塀に沿った細道を進むと元荒川を眼の下にした堤防に出る。その堤防の右手稲荷の祠の傍らに金網の柵で囲まれた板碑(青石塔婆)をみることができる。建長元年(一二四九)在銘の初期板碑で、市内ではもっとも古い年号銘のあるかつ大きな板碑として、市の文化財に指定されている。ここから堤防上の道を少し進むと元荒川の下をくぐった伏越圦樋の閘門に出る。ここが昭和三十八年頃よりの用排水分離工事によって新たに造成された葛西用水路の閘門である。それまでは葛西用水は当所で元荒川と合流して瓦曾根溜井に注いでいた。

 この辺りは越ヶ谷御殿地のなかでも御殿や御賄屋敷が設けられていた個所といわれ、大正十三年元荒川改修工事の際、御殿の礎石とみられる大きな角石が数個出土したといわれる。かつてこの御殿には家康をはじめ秀忠などがしばしば訪れ、数日から二か月近く(秀忠)滞在したこともあったが、明暦三年(一六五七)の江戸大火で江戸城が焼失したとき、越ヶ谷御殿が二の丸に移され、将軍の臨時の居城に用いられた。こうして越ヶ谷の御殿地跡は、三畝六歩の「御林跡」を除き、すべて畑地に開墾されて年貢地になったが、御殿の地名だけは残されて今日に至っている。なお、御殿地の構内は、現在の御殿町の区域からみておよそ六町余歩の地域であったとみられるが、その面影を偲ばせるものはわずかに元荒川堤上の桜並木だけになっている。

 またこの御殿地は、前記のように会田出羽氏の陣屋の一部であったことを伝えるが、出羽氏は家康御用よくよく精勤の旨をもって、慶長十三年(一六〇八)五月、伊奈備前守忠次の差添状により、家康より畑一町歩の屋敷地を与えられており、さらにこの家からは家康の近習に登用された庄七郎資勝、家光の小姓役に登用され、のち高五〇〇石の旗本に定着した小左衛門資信などが出ている。現在の元荒川は御殿地から曲流しているが、当時の荒川(後の元荒川)はそのまま直流し、天嶽寺や久伊豆神社の横を流れ、きんちゃく型に花田を迂廻して小林(現東越谷)に出ていた。地形的にも奥州街道と荒川を扼した要衝の地であり、この地に陣屋を構えた会田氏の勢威のほどを窺うことができる。その後元荒川は天嶽寺前から小林まで直道に改修されたが、この年代はおそらく寛永六年(一六二九)荒川の入間川筋への瀬替え後、瓦曾根溜井の用水を補うため引かれた中島用水(現葛西用水)導入のための一連の改修施工とみられる。

越ヶ谷御殿地建長の板碑