越ヶ谷天嶽寺

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 御殿跡を後にし、もときた道に出て宮前橋を渡ると筋向かいが越ヶ谷郷の総鎮守久伊豆神社と、浄土宗越ヶ谷天嶽寺参道の入口である。この入口に盛土の丘があり石段がついている。庚申塚と呼ばれた塚である。ここには延宝元年(一六七三)の文字庚申塔をはじめ元禄八年(一六九五)同十年、その他年代不詳の青面金剛像塔など、数基の庚申塔が立てられている。

 また庚申塚の傍らには、台石に「かハしも二ごう半 川かみかすかへ」と道しるべが付された宝暦八年(一七五八)の「奉供養六十六部霊地結縁」とある石塔や、同じく「南こしがや 北のじま・いわつき」と道しるべがついた文化四年(一八〇七)の猿田彦大神塔、そのほか明和五年(一七六八)の大師像を戴いた六十六部供養塔、元文三年(一七三八)の二十三夜講中による観音像塔などがならべられており、それぞれ台石には造塔者の名が刻まれている。またその左手松の大木の下に、文政四年(一八二一)造立による柱状型の石塔が立っている。ここには「元祖円光東漸悲成弘覚大師霊場」と刻まれており、その横の石垣の前には「越谷吾山翁墓碑在寺」と刻まれた自然石の塔が置かれている。

 花崗岩の門を入り敷石の参道を行くと左手に「浄土宗別格至登山天嶽寺」と記された新しい柱状塔が立てられており、その右手には台石ごと三メートル余に及ぶ享保七年(一七二二)造塔の巨大な地蔵菩薩像が通行人を見下ろすように立っている。黒塗りの山門をくぐると右手は保育園、左手には数百基とも数知れない無縁仏墓石群が整然とならべられている。なかには慶安二年(一六四九)在銘の南無阿弥陀仏と刻まれた自然石の供養塔などもまじっている。

 当寺は至登山遍照院と号し、天正十九年(一五九一)十一月、寺領高一五石の朱印地を与えられた古刹で、寺伝によると太田道灌の伯父ともいわれる専阿源照による文明十年(一四七八)の開山、その後小田原北条氏の城砦にも用いられ北条氏による寺領黒印状が交付されていたと伝える。ことに江戸時代当寺は越ヶ谷町一町一寺の特権を付与されていた寺であったが、これは江戸の初期、キリシタンの宗族を天嶽寺が摘発したことから、邪宗門の取締りのため、幕府からとくに一町一寺の特権が許されたとも、あるいは元荒川の直道改修の際、その河川敷が天嶽寺にかかったため、その代償としてこの特権が与えられたとも伝えておりさだかでない。いずれにせよ越ヶ谷町の住民になるには、他宗であっても浄土宗に改宗し、すべて天嶽寺の檀那にならなければならない掟になっていた。またかつては境内などに雲光院・法久院・遍照院・善樹院・松樹院の天嶽寺塔頭寺が置かれていたが、明治の神仏分離令後、ことごとく破却されて今は残ってない。

現在の宮前橋
越ヶ谷天嶽寺