天嶽寺境内と墓地

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 さて無縁仏墓石群のはずれ松の木の下に、高さ一・五メートルからニメートルほどの大きな宝篋印塔墓石が九基ほど置かれている。その数基は寛永九年(一六三二)造塔の供養墓石とみられ、年号のほか「先祖浄本院」「二代易教院」などの法号銘が読みとれるが、何家の墓石であるか不明である。その先は不動像を安置した不動堂になっているが、この堂舎の向こう脇に自然石による句碑が建てられている。これには「ひとつるべ 水のひかるや けさの秋 吾山」と刻まれているが、これは昭和九年に建立された越ヶ谷吾山の句碑である。それまで吾山の出自は越ヶ谷とあるばかりで不明であったが、吾山研究者などの調査の結果、天嶽寺墓地のなかからその墓石が発見され、同時に天嶽寺の過去帳などから吾山が越ヶ谷新町の旧家会田家の出自であることが確認された。そして吾山一五〇年忌を記念し関係者一同によって当所に建立されたものである。

 また吾山句碑の傍わらから朱塗りの鮮やかな中二階建ての山門にかけて、明暦元年(一六五五)造塔による地蔵尊像六体、天保十五年(一八四四)造塔の廻国供養塔、大正十年建立の「よの中の 憂も勤めもおのずから 逃れていまは 楽しかりけり」との歌が刻まれた自然石による南無阿弥陀仏塔などが置かれている。朱塗りの山門をくぐると参道の両側に、昭和四十三年本堂庫裏改築の落成を記念して建てられた御影の板石による記念碑と戦没者英霊碑が建てられている。

 このほか文政十一年(一八二八)念仏講中による大きな「南無阿弥陀仏」塔や、天保七年(一八三六)造塔の見あげるばかりの地蔵尊像などがある。この右手は盛土の上に建てられた鐘撞堂であり、昭和四十年再鋳造による梵鐘がかかっている。例年除夜の鐘は参詣者によって撞かれる習わしになっており、大晦日の夜半から元日にかけては、赤々と燃やされた焚火を囲み、鐘撞の順番を待つ人びとで境内は独得の賑わいをみせる。

 鐘撞堂を右にして正面は瓦葺の本堂であり、本堂前には文化元年(一八〇四)奉納の宝篋印塔などがある。また明治四十年建立になる自然石の「法界万霊」と刻まれた碑が建てられている。これは明治十七年に設定された宮内省江戸川筋御猟場関係者のうち、主猟局鷹匠長などの物故者を供養したもので、当時当地域における御猟場関係者の氏名なども連記されている。本堂前の左手は水汲場で各家の家紋が付された手桶などが数多く置かれている。その脇は生垣で区切られた墓地の入口になっている。

 墓地の入口を入った左手の一角は、越ヶ谷郷の開発豪士会田出羽家の墓所で、そこには後世の供養墓石とみられる天正十七年(一五八九)没年の喜教院殿長与利歓居士、俗名会田出羽資清、元和五年(一六一九)没年の歓喜院殿祐与道光居士、俗名会田出羽資久、正保元年(一六四四)没年の深興院殿澄与道幽居士、俗名会田七郎右衛門資重などの墓石がある。またそれとならんで五輪塔型や板碑型の墓石群がつらなっているが、これらは慶安二年(一六四九)没年の広大院殿直与浄頓居士、俗名会田小左衛門資信をはじめ、高五〇〇石の旗本会田家代々の供養墓石である。

 旗本会田氏の墓所は江戸牛込、その他代官として赴任しその地で没した石見国などに葬られているが、とくに本家筋の会田出羽家墓所にもその墓石が立てられたのは、分家後も越ヶ谷会田家と密接な関係を持続していたためであろう。それにしても資清や資久など本家筋代々の墓石がみあたらず、ただ後世建てられたとみられる供養墓石だけが残っているのはなぜであろう、おそらく越ヶ谷会田家の菩提所は、会田家屋敷構内など、天嶽寺墓地とは別な所に設けられていたことも考えられる。ともかく当時院殿居士号は武士階級のみに許された法号であり宿場町越ヶ谷では珍しい墓石といえよう。

 この会田出羽家墓地から林立した墓石の間を右手に入って行くと、神田家の墓所の中に越ヶ谷吾山の墓石を見ることができる。これには法橋往誉吾山師竹居士と刻まれた法名を中に、右には浩誉妙清信女、左には●戒智光信女とある法名がならんで刻まれている。このうち浩誉妙清信女は神田家から嫁いだ吾山の後妻とみられ、吾山の供養墓石の隣りの墓石にも浩誉妙清信女と刻まれた墓石がみえる。なお吾山の没年は天明七年(一七八七)十二月十七日、吾山の墓は滝沢馬琴によると、深川霊巌寺にあったといわれるので、天嶽寺神田家の吾山墓石は神田家によって建てられた供養墓石に間違いはない。記録によると吾山は新町の旧家会田家を没落させ、五十歳前後の頃に一家をあげて江戸馬喰町に退転している。したがって吾山退転後再興した新町会田家の墓所にこれを入れるのは憚かられたのではないかとみる説もある。

 また吾山の墓の後ろにあたる一角には、天嶽寺の開山僧をはじめ歴代住職の卵塔墓石が整然とならべられている。中世来の墓石もあるとみられるが古い墓石の年号銘などはすでに風化して読みとれない。この天嶽寺墓地は規模も大きく、しかも江戸時代一町一寺であっただけに、その檀家や墓石の数も他寺院に比べて多く、盆や春秋の彼岸には、色とりどりの供え花や線香の煙りで壮観な景観をみせる。しかもこの数多くの墓石の下には、その時代時代に対応して越ヶ谷町のため縦横に活躍したさまざまな人びとが永い歴史を秘めて静かに眠っている。今後こうした墓石を手掛かりに、故人の事歴を掘りおこしていくならば、越谷の歴史がより明らかにされるであろう。

天嶽寺会田出羽家墓所