天嶽寺を後にして再び元荒川べりに出ると、天嶽寺の参道と隣り合わせた越ヶ谷久伊豆神社の長い参道が目の前に現われる。その参道の入口に天保六年(一八三五)建立の自然石による総鎮守七邑(村)の碑がある。この碑文によると郷社久伊豆社は、越ヶ谷・花田・四町野・神明下・瓦曾根・谷中・豊三新田(現七左町)七村の総鎮守とある。江戸時代当社は四町野村迎摂院の別当社で、その境内地は四町野村の領分に置かれていたが、これが越ヶ谷町に移されたのは、明治二十二年の町村合併時における飛地の交換によるものである。しかし現在でも久伊豆神社祭礼時の神輿の渡御は、古例にしたがい白装束をまとった四町野の人びとによってになわれる習わしである。祭礼は九月二十八、九日、神体を納めた御輿は古式にのっとった行列をつくって久伊豆神社を出御、越ヶ谷町の年番町内に設けられた御仮屋に移される。その後は屋台の噺しや出店で賑わう町内を山車がねり歩き、「越ヶ谷のばか祭り」と評される程の混雑をみせる。
また江戸時代四町野村迎摂院に与えられた天正十九年(一五九一)からの高五石の朱印地は、久伊豆社別当寺として与えられたともいわれ、久伊豆社の器物はすべて葵の紋が付されている。越ヶ谷久伊豆社の創立年代は伝えてないが、『吾妻鏡』建久五年(一一九四)六月の条に、武蔵国大河土御厨において久伊豆宮神人と喧嘩出来の由、との記述があり、この久伊豆宮とは当社を指したとの説もある。この久伊豆社については、武蔵七党のうち私市党あるいは野与党の氏神ともいわれ、これら氏族の根拠地渋江・古志賀谷・大相模・八条等といった地には必ず久伊豆社が勧請されているが、この宗教圏は野与党氏族の分布と重なり、利根川旧流路と綾瀬川流路を画して、東方の香取社、西方の永川社と明瞭な区分をみせている。このうち騎西の玉敷神社(旧久伊豆社)と岩槻の久伊豆社、それに越ヶ谷の久伊豆社は大社で、古来からの由緒を伝えている。なお越ヶ谷久伊豆神社には、嘉暦元年(一三二六)在銘の板碑等を蔵している。