この先に参道を横切る小道があるが、これは久伊豆神社参拝客のために設けられた駐車場に通じる道である。この小道を過ぎた所に昭和九年建立による二の鳥居があり、さらに進むと当社の広い境内地の一角に入りそこに数多くの石碑が建てられているのが目につく。まず右手には明治三十九年建立になる日露戦争の「戦捷記念碑」、その隣りに昭和三十八年建立になる「誠忠碑」がある。これには「君と国に こころのまこと捧けけむ いさをしつきし時移るとも」との歌が刻まれている。この碑の向かい合わせに建てられた大きな碑は、昭和十七年神宮皇学館大学長山田孝雄撰による「平田篤胤先生遺徳之碑」であり、その前には同時に建てられた土井晩翠題詠、笹川臨風染筆による歌碑がある。これには「気吹の屋 いつのみ霊の宿れりし、あとなつかしき越ヶ谷のさと」と刻まれている。このほか大正十年の越ヶ谷町会田啓次郎の表彰碑、昭和二年の「大君の めくミニ匂ふ梅はやし長閉なる世のしるしなるらん」との荒井氏の歌碑などがある。また数株の梅の木を前に稲荷社などの祠堂がならんでいるが、さらにこの先には「是より野田道」と道しるべが付された寛政九年(一七九七)氏子中奉納による敷石建立供養塔や、明治二十九年建立日清戦争の「戦勝記念碑」などがあり、三の鳥居をくぐると明治癸未(明治十六年)奉納の巨大な幟立塔がある。この先は地を覆うような藤棚が広がっている。
この藤は昭和十六年埼玉県の天然記念物に指定されたが、樹齢はおよそ二〇〇年と推定されている。この藤の木は萩原龍夫氏の調査によると、天保八年(一八三七)越ヶ谷町の住人川鍋国蔵が、下総国流山から樹齢五〇余年の藤を舟で運び、当社の境内に移植したという。国蔵は当時棕櫚箒を作って売る職人であったが、寺社の祭礼や縁日には出店を開いてすしを売ったので、通称「すし大」とも呼ばれた。国蔵は久伊豆社の藤の花盛りにも出店を開いたが、すしを売りながらこの藤は地味が良いせいか育ちが早いなどと語っていたという。現在でも例年五月初旬の花盛りには盛大に藤祭りが行われているが、越谷の人びとは勿論、遠来の観光客がつめかけて、境内は混雑するほどの賑わいをみせる。
また境内の蓮池は何時の頃の造成か不明であるが、日光中禅寺湖をかたどったといわれ、池畔の盛土の丘には一面につつじが植えられ、花の季節には見事な景観をみせる。それはさておき神殿に向かって先に進もう。藤棚の先は社務所でそれに続いて結婚式場なども設けられている。その社務所の手前藤棚の横に、龍の彫刻がほどこされた瓦葺の亭があり、その下に嘉永二年(一八四九)越ヶ谷宿中町伊勢屋太兵衛奉納による大きな御手洗石が置かれている。ここから参道をはさんで文政元年(一八一八)や明治三十九年建立の御神燈などがあり、その左手は神楽殿や神輿を納める建物がならんでいる。正面は規模の大きな壮厳な拝殿であり、拝殿の前には一対の阿茄獅子が神殿を警衛するようないかめしさで参拝者を見下ろしている。
この阿茄獅子は越ヶ谷郷の開発領主会田出羽氏の子孫会田平兵衛資武とその子清太郎資美が文政十年(一八二七)新道と御神橋とともに奉納したものである。ちなみに会田出羽家は、正徳年間(一七一一~一六)没落、越ヶ谷を退転して江戸に住したが、平兵衛資武の代宝暦九年(一七五九)越ヶ谷町東裏耕地を開発、次いで安永二年(一七七三)一たん手離した伊奈備前差添書判によって拝領した畠一町歩、この実坪三町四反三畝十歩、このほか屋敷沿いの山林五反一八歩を買戻し、再び越ヶ谷に復帰したが、現在会田氏の子孫は静岡に住している。
また社殿階段下の両側に直径一メートル余に及ぶ鉄の天水桶が置かれているが、これは天保十二年(一八四一)の奉納になるもので、越ヶ谷町の鍋屋佐兵衛・塗師屋市右衛門・亀屋甚内・谷中屋重次郎・伊勢屋千太郎・豆腐屋伊之助・穀屋八右衛門・鈴木源兵衛・江戸屋長兵衛・釘屋清兵衛・糀屋清左衛門その外瓦曾根・四丁野・神明下・大沢・谷中・花田の寄進者それぞれの氏名が連記されている。さらに拝殿の石段をあがると、石廊下の両端に向かい合わせに石の狛犬が置かれている。享保七年(一七二二)の奉納になるものであるが、この狛犬は一名足止めの狛犬とも呼ばれ、この狛犬の足を麻縄でしばって願をかけると、不思議に家出人が戻ったり、悪所通いで家に寄りつかない者が外へ出なくなるという信仰があった。この狛犬の足は現在でも幾重にも麻縄でしばられているので、願をかける人びとが今だに絶えないことが知れる。
拝殿を下りて右手に足を進めると、しめ縄が張られた笹竹の中に、「天保二年(一八三一)三之宮卯之助持之、五十貫目」と刻まれた卵形の力石が台座の上に置かれている。三野宮卯之助とは現越谷市三野宮の出身で、力持ちを見世物として諸国を興業して歩いた業師である。ことに卯之助が持ち上げたという名入りの力石は、江戸深川八幡、鎌倉鶴岡八幡、信濃諏訪神社などで確認されている。卯之助は嘉永七年(一八五四)四十七歳で没したが、当時全国的に知られた力持ちであったらしい。
拝殿に続いて木の香も新しい奥殿が続いている。これは昭和五十四年の一月、その再建が竣功したばかりの神殿である。この奥殿の裏には八坂社、三峯社、五前社などの祠があり、その奥は小規模ながら、原植生のスダシイ林が残されている数少ない社叢で、昭和四十二年越谷市の記念物に指定された。夏季には樹木の葉が欝蒼と生い茂り、蝉の鳴声が絶えない別天地となる。
神殿を後にして社務所の脇から池に沿って通じる小道を進んでみよう。一面のつつじで覆われた丘の中腹に嘉永四年(一八五一)建立の「精誠感応之碑」を見ることができる。この碑銘によると、文政九年(一八二六)、天保九年(一八三八)、嘉永二年の干魃年に雨乞を祈願したところ、感応あって忽ち雨が降った。この人びとの信仰心と、これに感応した神慮を後世に伝えるため碑を建てたとある。またこの先に、嘉永二年伊勢太々講中建立になる自然石の吾山句碑がある。これには法橋吾山とあり、「出る日の 旅のころもやはつかすみ」の句が刻まれている。おそらく吾山が越ヶ谷を退転したときの遺稿であろう。
こうしてつつじに囲まれた池を半巡したところ生い茂った樹木の蔭に草葺の古びた空屋がひっそりと建っているのを見ることができる。この空屋はかつての平田篤胤の仮寓跡であるという。越ヶ谷には、篤胤の門人として、山崎長右衛門・小泉市右衛門・町山善兵衛の三名がいたが、このうち『古史徴』など版木の金策や後妻おりせの縁談などで、篤胤はしばしば山崎家を訪れていたのが篤胤の日記からも窺うことができる。しかし久伊豆神社境内の寓居に逗留したかどうかは不明ながら、篤胤は文政三年(一八二〇)久伊豆社に絵馬額「天之岩戸開之図」を奉納しており、越ヶ谷に来たときは参拝のため久伊豆社を訪れたことは確かであろう。その後天保十二年(一八四一)篤胤は幕府の咎めをうけ、著述差留のうえ江戸払いを命ぜられた。このため篤胤は同年国元の秋田に住したが、同十四年秋田の旭川村で没した。ともかく篤胤と越ヶ谷は深い縁で結ばれていたといえる。
またこの篤胤の仮寓跡から筋向かいに、花崗石の角石が建てられている。これは大正八年越ヶ谷停車場新設のときの記念碑である。もとは越谷駅の傍らに建てられていたが、駅前の整備施工にともない、当所に移されたものである。近来越ヶ谷久伊豆神社の参拝客は、年間を通じて増大の一途を辿っているが、とくに除夜の鐘とともにくり出す初詣客で、その参道は埋めつくされる程の賑わいをみせるようになった。なお久伊豆神社境内脇の建物は、昭和三十三年越谷市(当時町)で初めて設けられた地下水汲み上げによる上水用の浄水場で現在も稼働中である。