小林の東福寺

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 香取神社を後にして少し行くと、同じく住宅地より一段高い丘の上に建てられている寺院の屋根を望むことができる。真言宗豊山派小林山東福寺である。東京電力営業所わきの道を入り、石垣で囲われた丘の上の墓地をみあげながら石段を昇ると、両側の墓地を遮るように白壁を模した石塀がつらなり、その先は扉付きの山門になっている。山門をくぐると左手に鐘撞堂があり、昭和五十三年鋳造の梵鐘がかかっている。右手には古びた薬師堂があり、その先には台石にそれぞれ奉納者の名が刻まれた六地蔵、文化十二年(一八一五)造塔になる三メートル余の宝篋印塔、そして享保十二年(一七二七)造塔の三界万霊と刻まれた台石ごと四メートル余に及ぶ、巨大な地蔵菩薩像がならんでいる。この地蔵像の前には燈明料三反歩奉納と刻まれた香台と、元文元年(一七三六)在銘の石燈籠が置かれている。

 突当りは鉄筋建ての本堂であるが、以前の東福寺本堂は庫裏その他とともに昭和三十七年火災に遭遇して焼失、現在の堂舎は昭和四十三年に再建されたものである。

 この東福寺の創建はつまびらかでないが、本堂の傍らに建立された堂舎再建記念碑の碑銘によると、当寺は文永年間(一二六四~七五)盛尊和尚の開山、開基者は岩槻渋江氏の流れを汲む須賀若狭守とあり、慶長四年(一五九九)堂宇悉く焼失したがその後再建したとある。なお当寺には元徳三年(一三三一)在銘のものをはじめ、正慶元年(一三三二)、元弘三年(一三三三)在銘などの板石塔婆が六、七基保存されている。墓地には古い墓石は見当らないが、なかには当寺住職の墓石とみられる五輪塔墓石に寛永年号の銘が読みとれるのもある。

 また当寺の境内には松の大木が生い茂り、松の枝にかかった月が遠くから望見できたことから東福寺の秋月とうたわれ、越ヶ谷八景の一つに数えられたが、今は松の木も少なくなった。ことに区画整理前までは、東福寺脇の山道は真赤な蔓樹沙華の花に覆われ、吟行の名所の場所であった。現在当寺の境内は菊の季節には菊祭りが催され、この期間中は菊の観賞家で賑わいをみせる。

 東福寺を辞して昭和四十年造成になる十六メートルの市道に出て越谷駅に向かうと、元荒川と葛西用水路に架せられた橋がある。かつてこの川下に平和橋と称された木橋が架せられていたことから、この橋は新平和橋と名付けられている。橋を渡った所が越谷市役所の庁舎で、この脇を流れる葛西用水に沿い、柳の木が植えられ夏季には涼気を誘う散歩道になっている。また庁舎構内のうち葛西用水路に面した所に石碑が建てられているが、これは昭和二十三年建立になる相扶共済の碑である。これは昭和十年、越ヶ谷町が会員制による救療事業会「順正会」を設立した。これが全国にさきがけた国民健康保険類似組合の第一号であったため、国民健康保険発祥の地として建立された記念碑である。

 道を再び市道にとり、歩道橋を渡って銀行通りを三分程行くと越谷駅に着く。この散歩コースの所要時間はおよそ二、三時間、行程およそ三キロメートル、子供連れで楽しめるコースの一つである。ことに昭和三十八年頃からの用排水分離工事によって、元荒川と葛西用水路の間に造成された中堤は、春や秋のやさしい日射しの季節子供を遊ばせるには恰好の場所であり、釣場としても適当な個所である。とくにこの葛西用水には新平和橋から年に二回程、養殖の鯉や鮒が放流されるので、魚は豊富なようである。

小林東福寺
市役所構内相扶共済の碑