瓦曽根溜井

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 越谷駅から駅前新通りを東に向かって日光旧街道を横ぎり、日光新道(現県道足立越谷線)に架せられた歩道橋を渡ると、昭和四十四年の建造になる五階建ての市役所前に出る。この市役所の正面前十六メートル駅前通りを隔てた三階建ての建物は、昭和四十年の建造になる市立福祉会館である。館内には老人娯楽室やレストラン西武をはじめ、市立図書館・市史編さん室・保育課、その他、社会福祉協議会などの諸機関が入っているが、現在老朽化のひどい建物になっている。この手前の横道は、元荒川堤防上を利用した古くからの公道で、もとはこの道の東側にあたる市役所福祉会館をはじめ、市役所の裏に続く県立の公共施設などは、すべて瓦曾根溜井内の河川敷であった。

 もと溜井の堤防道であったこの福祉会館横の古道を右に折れて進むと、昭和四十二年開設になる乳児保育所の前に出る。ここは当時市立の乳児保育所としては、県下で初めての施設で注目を集めた保育所である。そこを過ぎると川幅の広い水面が一望に広がる。瓦曾根溜井と称される水田灌漑用の貯水池であるが、昔の面影を幾らか残している一角である。

 川の流れを堰止めて水位を高め、各用水路に水を順調に流すために設けられた古くからの用水施設で、当所は慶長年間(一五九六-一六一五)の開発を伝える。この溜井からは同じく慶長年間の開発を伝える四ケ村用水、八条用水、寛永六年(一六二九)新開の西葛西用水、延宝八年(一六八〇)新開の谷古田用水、それに享保七年(一七二二)には廃止されたが延宝三年新開の本所上水が引水され、下流領域数万石の田畑を養う水源地として重要な機能を果してきた葛西用水通りの溜井であった。

 現在でも晩春の頃になると埼玉県行田市の利根大堰から利根川の水が入り、満々とたたえられた湖のような溜井の水面に釣糸をたれる人々が終日跡を断たない。また秋から春にかけては水が枯れ、わずかな細流が溜井の中央を一筋の帯のように流れるが、干上がった河川敷には萠草が広がって毛氈を敷きつめたような景観をみせる。かつてここには「コシガヤホシクサ」と名付けられた珍しい水草が群生する全国唯一の場所であったが、今は絶滅したともいわれる。

 この対岸は中土手になっているが、その向こうは夏冬水の流れが絶えない元荒川の流れである。ここは昭和三十八年頃から同四十一、二年にかけて施工された用排水の分離工事によって造成された改修河川であるが、それまでは元荒川と葛西用水は大沢の地蔵橋地先で合流し、この瓦曾根溜井に注がれていた。今はこの中土手によって両川は二つの流れに分離しているが、それまでも溜井とその下流元荒川は、松土手と称された堤防で区切られており、この堤防は乳児保育所の対岸まで続いて東小林(現東越谷)の地につながっていた。つまり溜井下流の元荒川は溜井の東側を松土手に沿って入江のように入いりこんでいたわけである。この両川を使い分けて造成された松土手は、それなりに重要な意味をもっていた。すなわちこの土手には溜井水量の調節機能をもった松圦と称された圦樋が敷設されていたが、さらにこの松土手が河岸場に利用され舟運の拠点になった。これを瓦曾根河岸と称する。

瓦曾根溜井