瓦曽根河岸

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 いうまでもなく灌漑用の溜井と排水用の元荒川の水位には大きな差があったが、上流から下がってきた荷舟の荷は、この松土手に設けられた河岸場に荷を下ろし、元荒川の荷舟に積み替えられて江戸に運ばれた。はじめは主に年貢米の津出しに利用されたが、商品経済の地方農村への浸透とともに、米・餅米・大豆・味噌・醤油・菜種油・木綿などの商品荷が河岸場から盛んに江戸へ積み出された。こうして瓦曾根河岸は安永三年(一七七四)幕府へ河岸問屋冥加永を納める公認の河岸場に取り立てられたが、その開設年限は享保以前の由緒を伝える古い河岸場であった。

 明治に入ってもしばらくは盛業が続いたとみられ、溜井の堤通りには河岸問屋が軒をつらね、上り下りの荷を運ぶ大八車で道路は混雑をきわめていたという古老の話しが伝えられている。因みに明治八年調査による『武蔵国郡村誌』によると、当時瓦曾根河岸には一〇〇石積高瀬船四艘、八〇石積似艜船四艘、二〇石積伝馬船一艘、川下小船十三艘を具えていたとありその盛況を窺うことができる。その後元荒川の下流から中川通りにかけては、中洲などが堆積して荷舟の運航に差支えるようになり、当地域の舟運は綾瀬川通りに移ったため、長い歴史をもった瓦曾根河岸もついに廃止されるに至った。

 それはともかく湖のように水をたたえた瓦曾根溜井の自然景観は、古くから文人墨客の賞讃するところであったが、ことに天明年間から寛政年間(一七八九―一八〇一)にかけての浮世絵の大家鳥文斎細田栄之は、瓦曾根溜井図という数少ない風景画を残している(現市長室保管)。また〝瓦曾根の帰帆〟などと越ヶ谷八景のなかにもうたわれ、広く人びとにもしたしまれていたが、さらに明治の画人中村不折は「東京より北方六里半越ヶ谷附近の春色」と題し、瓦曾根溜井の長閑な風景を画いている。

 しかも余程瓦曾根溜井の景観が印象に残ったとみられ、その下段には「春は遍し東西南北の村、紅霞二十里、元荒川の一水西北より来り、沖積平原の間を曲折し、水或は絶え或は流れ、沙鷗其の最も暖き処に翔泳し、漁人艇を葦芽三寸の辺に停めて四ッ手網を曳く、獲る所は何ぞフナ・タナゴ・モロコ・ハヘ、両岸の楊柳淡くして煙の如し、桃花其間より映発し真個に一幅の錦繡画図、花外の茅屋数椽、就きて麦飯筍蕨を烹さしむべし、一腕の渋茶を啜るも亦た佳(後略)との名文を寄せている(志賀重昂『日本風景論』巻末)。現在これらの景観は、溜井敷の一部公共用地への埋立転用、用排水分離のための葛西用水と元荒川の改修施工により、いちじるしい変化をみせたが、それでも自然が残されている数少ない場所として昔を偲ぶことも可能である。