照蓮院を辞してもときた道に出ると、道をはさんだ向かい側、旧国道四号線に面した所に瓦葺朱塗りの鮮やかな堂舎が目につく。これはもと照蓮院の末寺最勝院と称された寺院跡で現在観音堂と呼ばれているが、朱に塗り替えられたのは昭和五十三年のことである。堂の前には寛文五年(一六六五)中村彦左衛門寄進による御手洗石が置かれているが、この石は瓦曾根溜井石堰築造の際の余り石だと伝える。またその脇に金網の柵内にコンクリートで固められた天保六年建碑の稲垣成斉翁●歯の碑と、天保八年「御貸附利倍金之内御下金請取証文」の文面が刻まれた碑が建てられている。
このうち稲垣成斉とは、瓦曾根村名主中村彦左衛門重権の第二子であり、寛政二年(一七九〇)浅草福富町の豪商稲垣氏に養子となった池田屋市兵衛のことであるが、郷里瓦曾根村にその歯を埋葬するにあたり、市兵衛の履歴が記されて建碑されたものである。また天保八年の碑は、その碑銘によると瓦曾根村中村氏が、凶年の備えとしてその資金を幕府経営の利倍御貸附金に預金していたが、天明年間の凶作年にこの預金を下ろして村内の困窮者を救うことができた。しかしその後凶作に備えての積金を怠っていたのが心残りであり、その子たちに遺言として積金の件を頼んでいった。このうち稲垣家に養子となった池田屋市兵衛が、父の遺言にもとづき、瓦曾根村の凶年備えとして文政九年(一八二六)金百両を江戸猿屋町会所御貸附金の内に積立てた。ところが天保七年(一八三六)の大凶作年に当り、村内に困窮者が続出した。そこで市兵衛は瓦曾根中村氏と相談のうえ御貸附金の積金を下げ、九二軒の困窮者に金一両宛を施金したという旨の文面が記されている。さらにこの碑の裏には瓺玉斉(恩間渡辺氏)によって和文による池田屋市兵衛に対する讃辞と、「こがねより しろがねよりはなさけある ひとこそは世のたからなりけれ」の歌が刻みこまれている。
なおこの碑は別の場所に置かれていたが境内の整地とともに現在地に移されたものである。このほか境内地には瓦葺格子戸構えの古びた成田山不動堂や年代不詳の大きな青面金剛塔、観音堂住職の墓石などがある。ここで再び道をもとに戻り、瓦曾根溜井沿いの堤上を進むことにしよう。