瓦曽根堰

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 道に沿って藤田医院があるが、この家はかつて「越谷屋」と称した船問屋で、記録によると元荒川の上流岩槻の新曲輪河岸とも頻繁な交流があった有力な河岸問屋の一軒であった。この先は西方のうち大境といわれた地で、溜井に臨んだ一角は現在越谷シティハウスと称する住宅団地になっているが、この地は最近まで西方村大境組の名主秋山家の屋敷地であった。このもと秋山家の前に瓦曾根溜井から引水される元圦が伏込まれているが、この元圦に続く用水路は谷古田用水路と称し、延宝八年(一六八〇)の開発になるものでかつては谷古田領(草加地域)の用水に用いられてきた。

 この谷古田用水路元圦に沿った道端に、古びた柱状型の塔が立てられている。庚申講中によって享保八年(一七二三)に造塔された道しるべである。右面には「これより上 じおんじ三里半」左面には「これより左吉川へ壱里二拾五町、これより右房川(栗橋の利根川)まで五里」とあり、裏面には「たび人の 道しるべともなるしるし石 もぢはくちせぬ のりのかよいぢ」と刻まれている。この道標の脇は、もと西方大境の集落に通じる古道であったが、今は拡幅舗装され団地の入口になっている。

 ここにも谷古田用水元圦につづいて一つの元圦が伏込まれているが、これは寛永六年(一六二九)から用水に用いられた西葛西用水路の元圦である。同用水は途中まで谷古田用水路と接して流れているが、登戸地先で左右に分かれ葛西地域(現東京都葛飾区)の用水に用いられてきた。さらにかつては西葛西用水路と平行に、延宝三年(一六七五)本所、深川地域住民の飲料水供給のため、本所上水道が開削されたが、この上水道は地勢その他の関係から、その機能が失われたため享保七年(一七二二)に廃止された。このとき八条領垳村(現八潮市)までの上水故道は埋立てられて新田に開発されたが、久左衛門新田(現葛飾区)から下流の上水故道は西葛西用水路に利用された。その後亀有から本所小梅までの同用水路は曳舟川とも呼ばれ、曳舟による舟運で著名になった用水路である。

 さて西葛西用水路のすぐ先が八条領地域の用水に用いられた八条用水の元圦あり、慶長年間の開発を伝えるが、現在瓦曾根溜井から引水される用水路のうち灌漑用水路の機能を有する唯一のものである。この八条と東京葛西両用水元圦間の三角低地に一基の石碑が建てられている。これは明治二十六年建碑による「瓦曾根溜井防水記」の碑であり、その碑銘によると、明治二十三年の関東大洪水の際、村民一同必死に瓦曾根溜井堤の補強に努め、当地域の水害を見事に防いだ旨が記されている顕彰碑である。当時水との闘いが、農民たちにとっていかにきびしいものであったかその一端を偲ばせるものである。

 ここで道路は二俣に分かれる。右側の舗装された道は昭和初期に造成された県道流山越谷線で、かつて吉川新道とも呼ばれた。また左方の小道は川に沿った古くからの吉川道で、大正年間には乗合馬車がラッパを響かせて往復した道であった。道に沿って桜やいちじくの木が数本、その先は朱の鉄枠で組まれた瓦曾根堰である。もとはここからおよそ八、九〇メートル上流に、寛文四年(一六六四)伊達陸奥守御手伝普請によって造成された石堰が設けられていたが、大正十三年、元荒川改修事業の一環として、現在みられるような鉄筋コンクリートによる幅一〇尺(約三メートル)高さ九尺、ストーニー式扉巻揚による近代的閘門一〇箇を具えた堰枠に改造された。なお上流の石堰が設けられていた場所には今でもその名残りである石が幾つか残されている。この堰枠から下流は元荒川となるが、葛西用永に水が入ると釣人で賑わうようになる。

瓦曾根堰
瓦曾根溜井石堰跡