瓦曾根堰(水門)から下流は元荒川一筋の流れになり、その河畔は畑地に利用されている。川に沿った堤上の道は人や車の往来も少なく、また畑地と混在する住宅も比較的まばらで静かな散歩道の一つといえる。この元荒川の右岸は江戸時代西方村のうち藤塚という地であったが、昭和四十五年(一部は同四十六年)都市化現象にともない住居表示が変更され相模町という町名になった。ひっそりした一団の住宅地を過ぎると、堤に沿って楢や櫟の樹木が数十株つらなりその下は畑地であるが、現今ビニールハウスによる野菜が仕付けられている。
ビニールハウスの間の坂を下りて行くと、左手に墓地がある。江戸時代は西方村真言宗大聖寺持ちの一寺院で福寿院と称したが、今はその堂舎は破却されて墓地だけが残っている。柵もない墓地のうち入口とみられる空地を入ると、造塔年代も読みとれない六地蔵尊像が木小屋の中に納められており、それにならんで明和九年(一七七二)造塔の青面金剛庚申塔や天保五年(一八三四)の馬頭観世音塔などがあり、その傍らに天保九年建碑の「青面金剛上師十誓願」という自然石の碑がある。この碑銘は一つ書になっており、おそらく庚申を信奉する者の利益を表わしたものとみられる。すなわち福徳・智恵・官位・長命・愛敬・菩提を願い、子孫・眷属の繁栄を望み、火災・盗難を防ぎ諸病の治癒を庚申の神に願えば、これがかなえられるという趣旨である。江戸時代現世利益を願う庶民にとって、とくに庚申信仰が盛んであったのは当然であったと思われる。
また墓地の中ほどには宝暦七年(一七五七)造塔の笠がくずれ落ちたままの宝篋印塔や、明和二年(一七六五)の地蔵菩薩像などがある。また墓石のなかには寛永九年(一六三二)の年号銘が続みとれるものをはじめ、寛永期の宝篋印塔墓石が数基ほどみとめられ、古くからの墓地であることを窺わせる。墓地の先は一かたまりの新興住宅地になっているがその先に樫や欅の大木に覆われた広大な屋敷地が残されている。その一角は児童用の遊園地に開放されているが、ここはかつて西方村の名主の一人斎藤孫兵衛家の屋敷跡である。幕末から明治期にかけては味噌の醸造家として知られ味噌屋の屋号をもつ大資産家であったが、今はその名跡は絶え他人の所有地になっている。しかし春の頃には梅や桃が花をつけ、風雅な屋敷地の名残りを今にとどめている。
この家からは洋画界のうち二科会創立者の一人として著名な画人斎藤豊作が出ている。豊作は明治十三年六月、西方村斎藤孫兵衛の次男として生まれ、大相模尋常小学校卒業後東京日本橋居住の叔母の養子となり、開成中学校を経て東京美術学校に入り西洋画を学んだ。明治三十八年美術学校卒業後フランスに留学、同四十五年帰国とともにその作品を次々と発表、日本画壇に新印象派の新風を送りこんで注目された。大正三年有島生馬・梅原龍三郎などとともに二科会を創立、多くの画家を育成したが、大正八年から故国を離れてフランスに永住、昭和二十六年フランス、ヴェネヴェルの古城(自宅)で没した。