大相模不動尊の由緒

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 斎藤家の屋敷跡を後にして堤通りの道を暫らく行くと、一かたまりの椿の木の茂みの間から一群の墓石を窺うことができる。堤下の小道から中へ入ると、そこは五輪塔や卵塔を中心とした墓所になっているが、ここは真言宗西方村大聖寺住職歴代の墓所である。大聖寺は祈願寺であった関係でその境内に墓地を置かず、境内から離れた所に設けたものとみられる。墓所は写真にみられるように中興開山定伝法印はじめ歴代住職の墓石が整然とならべられている。この墓所の隅に寛永五年(一六二八)と寛永十六年の二基の宝篋印塔墓石が椿の木の下に立てられているが、誰の墓かはその碑銘からは読みとれない。

 大聖寺住職の墓所を出て間もなく一群の新興住宅団地に出るが、この辺りはかつて巨木と竹林が生い茂り、大相模の青嵐とうたわれて越ヶ谷八景の一つに数えられた大聖寺の境内地であった。大聖寺はもと不動坊または不動院とも称され、寺伝によると越谷地域寺院中最古の天平勝宝二年(七五〇)の創建を伝える。本尊の不動明王像は奈良東大寺の開山僧で、東大寺大仏の鋳造に功労のあった良弁僧正が、相模国大山で槻の木で彫刻した二体の不動明王像のうちその元木で作られた一体であるという。このためその元木で作られた不動明王像を安置した当地を大の相模、つまり大相模、山号を真の大山、つまり真大山と称したという。その後大相模不動院の住職は、流浪の出家であったり、あるいは優婆塞(出家しないで仏弟になった者)の類であったりして、不動院はしばしば荒廃することがあったが、不動の霊験はあらたかであり、ひろく人びとの崇敬を集めてその法燈は断えることがなかったという。

 ことに戦国期には岩槻城主の祈願寺として当地域に強大な勢威を扶植していたとみられるが、元亀三年(一五七二)二月岩槻を手中に収めた小田原北条氏の一門北条氏繁が当の不動院に対し、岩槻に忠誠をつくす旨の掟書を発している。同時に氏繁夫妻が不動院を親しく訪れていたといわれ、当寺には氏繁の掟書とともに氏繁内室の寄進といわれるさんごの数珠などが残されている。さらに天正十四年(一五八六)には、岩槻城主太田氏房が、不動院の保護を約し寺中諸役不入などをうたった制札を発しているが、この制札の写しなども残っている。

 次いで天正十八年(一五九〇)北条氏に代り、関東に入国した徳川家康は、翌天正十九年十一月、不動院の寺領安堵として高六〇石の朱印状を発しているが、この寺領は反別では一一町三反余歩に及んでいる。これは越谷周辺ではもっとも大きな寺領であった。なお大相模不動院の院号はこのとき大聖寺と改められたといわれ、天正十二年に不動院の住職に入院した真言密教の僧定伝法印が当寺の中興の祖とあおがれている。その後家康は民情視察を兼ねた鷹狩の際には、大聖寺へも宿泊を重ねていたとみられ、当寺にはそのとき下賜されたという家康の寝衣をはじめ葵の紋がついた棗や薄茶容器などが保存されている。このほか同寺には周辺の畑地から出土したといわれる延文六年(一三六一)、永徳二年(一三八二)、同四年、文安四年(一四四七)、応仁三年(一四六九)、文明十五年(一四八三)、明応八年(一四九九)在銘など八基の青石塔婆が保管されている。

 こうして家康より高六〇石の寺領を与えられた大聖寺は、江戸城の鬼門を守る寺院として祈願寺に位置づけられたが、利生院・神王院・東光院・安楽院・薬王寺・観音寺・玉蔵院をその塔頭に置き大寺院としての勢威を誇った。ことに当時は江戸時代を通じ人びとから大相模の不動尊と親しまれ、関東三大不動の一つとも称されて不動信仰の中心となっていた。また延宝六年(一六七八)には境内地に東照宮を勧請し、正徳年間には七堂伽藍を建造し、その偉容は周辺にひろく知れわたっていたようである。

大聖寺歴代住職の墓所