大聖寺の境内を吉川越谷県道に面した正門から入ってみよう。現在みられる大聖寺前の県道は昭和初年の造成であり、以前は山門に続く古道に沿って門前町が形成されていたが、今はその面影が失われている。構堀の跡とみられる小溝に架せられた石橋を渡ると昭和三十年寄進になる花崗岩の天水桶が一対、その前は見上げるような堂々とした銅葺の惣門である。これはもと仁王門と称され正徳五年(一七一五)の建造になるもので、明治二十八年の火災の際焼失を免かれた唯一の建造物である。惣門に掲げられた真大山と記された偏額は、白河楽翁つまり寛政年間幕府老中を勤めた松平定信の筆になるものである。
また惣門の両側の金網の柵の中に納められた仁王像は、その作成年代が不明ながら、痛みがひどかったため、昭和五十一年に補修されかつ塗り替えられたものである。門の裏側には仁王像修繕を記念して掲げられた額などとともに、巨大な額が掲げられており、算額とも俳句の額ともいわれているが、文字は消滅しているので何の額かは不明である。この惣門の左手に良弁塚と刻まれた碑がある。良弁とは当寺の本尊不動明王像を彫刻した良弁僧正を指したものであるが、碑の裏に記された銘文によると、良弁は鎌倉の住人染谷氏の出自で、幼年のとき鷲の翼に乗せられ奈良東大寺の山中に運ばれたとある。また下今井村金剛寺の前住職寿山祐尊上人は、一品親王より栢樹院の号を賜った高僧であるが、この上人は下総国猿島郡蓮台村の旧家染谷氏からの出自であり、染谷という良弁と同姓の因縁から、天保八年(一八三七)大聖寺当時の住職沙門寿山が良弁塚の建碑にあたり、とくに碑表の三字を認めてくれたなどとある。この碑は以前門前から離れた所に建てられていたが、越谷吉川県道造成の際現在地に移されたという。
この良弁塚にならんで明治三十四年建碑による征清軍凱旋記念碑がある。また惣門の右手の隅に置かれている碑は明治二十一年建碑の惣門修繕碑で、これには文化元年(一八〇四)瓦葺の惣門を建立、嘉永元年(一八四八)銅版に葺替え、さらに明治十七年信者の寄進をうけて修繕を施工したと記されている。さて惣門をくぐると正面の不動堂に通じる参道は、一段高い敷石が直線に敷かれており、広い境内地の左右にはさまざまな石碑が建てられている。しかし惣門を出たすぐ左右は新しい家屋が境内を狭めて入りこんでおり、境内地の一部を解放せざるを得なかった戦後の寺院経営の困難さを知らせてくれる。
まず左手の方から境内の碑をみていこう。住宅と隣接した奥まった境内の隅に、明治四十二年建碑になる「日露戦没記念之梅」と刻まれた碑がある。これには千代の梅と題し、「かぎりなき 春を重ねて匂ふらむ 八千代の梅の高きかほりは」との歌が刻まれている。おそらく日露戦争勝利の記念としてこのとき梅の木が植えられたのであろう。もっとも大聖寺境内には、明治三十五年より幾多の古梅が移植され、大聖寺の古梅園と称されていたが、なかには十善梅と名付けられた樹齢七百有余年の老梅は幹廻り一丈三尺(約四メートル)、樹齢五百余年の四恩梅は幹廻り一丈、このほか心月・神光・飛龍などの古木が、花の季節には馥郁たる香気を放ち、東京などからの観客が後を絶たなかったという。
この盛況の一端を大正三年三月六日の新聞記事によってみると、梅の花が咲き揃ったとの便りで「去る五日講員三百六十余人、同日午前十時卅分 浅草発特別列車に搭じ(中略)其順序は先頭楽隊に次いで浅草芸妓十四名自動車にて乗り込みたるより、沿道之れが盛況を見んと人を以て埋められたり(中略)当日雲集せし善男善女は約六、七千にして頗る賑ひたり」とある。現在この碑の前の広場に十株ほどの梅の若木が植えられ、花時には可憐な花をつけているが、梅の名所になるには先のことであろう。
この広場の左手はもと竹林で覆われていたが、『新編武蔵』の大聖寺境内図によると、仁王門から二天門にかけての左手は木の塀で画された不動堂別当大聖寺の数棟からなる堂舎となっており、それに続いて東照宮や太子堂その他の建物が立ちならんでいる。しかし現在は新興の家屋に接し盛土の上に鐘撞堂が朽ちたまま取残されたように建っているだけである。
この鐘撞堂の前方に一叢の木立があり、このなかにすでに枯れてしまった松の巨大な幹と枝が木の棚に支えられて往昔の面影をとどめている。この古木の傍らに明治三十六年真大山住職高岡隆円が建立した御座の松の歌碑があり、これには「御座の松 とこしへに国をまもらむちかひをは たゝひともとの松にのこして」とある。さらに少し離れた個所に松栄講と東京縁日商の明治三十七年建碑による御座の松の由来を刻んだ碑があるが、これによると、この松は延慶二年(一三〇九)に植えられたもので、明治二十八年七月の大聖寺大火の際にも一葉も損せず残ったとあり、俗に火除けの松とも称されていたという。現在枯松のそばに若木の松が植えられ、御座の松にかわって緑の葉を棚にたらしている。この松の傍らは大聖寺の庫裏に通じる山門となっている。
次に参道の右手をみていこう。もとは境内の出店であったとみられる縁台付の家の先に大きな三基の碑がある。護摩木山講による明治二十六年建立の碑でそれぞれ寄進者の名などが一面に刻まれている。これは荒れた境内地の旧観を戻すため、境内地に樹木を植林する目的から木山講を中心に資金が集められたという記念碑である。これとならんで昭和四十二年建碑の一きわ大きな忠勇碑、明治三十九年建碑による日露戦没記念碑があり、その傍らに明治四十年寄進による降魔の松と名付けられた赤松とその記念の碑がある。
また参道をはさみ、寛政元年(一七八九)馬口労連中寄進による石の燈籠があり、その左手は藤棚で、この藤棚の奥の築山の下に「名月や いつもの儘の 人の影 喜好」「手をうてハ あいと答つ 水の音 三花」などと句を刻んだ明治三十一年の「互人連句碑」、明治十六年建碑による教育者斎藤徳行の顕彰碑、嘉永三年(一八五〇)の「御手本講中」と刻まれた筆子中の碑がならんでいる。これらの碑の間に築山へ昇る石段があるが、この石段の両側に本堂再建寄付の記念碑が四基ほど建てられている。年代は不明であるが、おそらく明治二十八年の火災後に再建されたときのものであろう。ちなみに大聖寺本堂は大正十二年の関東大震災のときも倒壊し、しばしば再建されている。
また築山に昇る石段の正面に立ちふさがるように建てられている大きな碑がある。神道無念流の達人中村有道軒の碑である。碑銘などによると有道軒は東方村(現大成町)の旧家中村家の嗣子で万五郎政敏と称し、天明四年(一七八四)の生れ、幼年から武術を好み、神道無念流の師範、久喜町の戸賀崎知道軒ならびに同有道軒の門人になって剣術を学んだが、年十八で初伝の免許をうけた。その後諸国を遍歴して有名剣士と技を競ったが敗れたことはなかったという。やがて師から極秘の免許を得て道場を開いたが、名声を伝えきき、その門弟になった者は一千余人を数えた。文化十四年(一八一七)師の戸賀崎有道軒が死に臨み、とくに高弟万五郎を呼びよせ、その子芳栄がまだ一二歳の幼年であることを理由に、万五郎に有道軒を名乗らせ道場の運営にあたらせた。こうして神道無念流戸賀崎氏の後継者となった中村有道軒はなおも子弟の養成に努めたが、万延元年(一八六〇)閏三月七七歳で病没した。碑の裏には主な門弟らの名一四七名が記されており、碑文の撰者は漢学者として著名な大槻磐渓となっている。なお中村万五郎の家は武蔵七党野与党の一族大相模次郎能高の後裔であることを伝えている。