大聖寺東門と百庚申

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 この有道軒の碑の後ろは古びた堂舎であるが、聖天堂とあるだけでその由来などは不明である。また築山の上の聖天堂の下は細長い池となっており、池の中の小島に弁天宮の祠が設けられているが、池の水は溜り水だけに汚れているようである。一方聖天堂の後ろ築山の傾斜地は、多数の岩石で覆われ、さながらけわしい岩山を表徴させたようになっているが、その中腹に安永三年(一七七四)銘のいかめしい不動像が四囲をにらんでいる。またこの傍らに安永四年在銘の宝篋印塔や、年代不詳の敷石供養塔、あるいは東門通り水垢離取場と刻まれた石塔などが立てられているが、もとはこの築山を中心に樫や杉の巨木が昼なお暗く生い茂り、これらの石塔と相まって一きは荘厳な一角を形成していたとみられる。これを物語るように、直径一メートル以上にわたる数多くの木の幹が伐倒されたままあちこちに置かれている。

 築山を下りて再び参道に戻り正面の本堂に向うとその手前の両側に門構えの形で大きな岩石が置かれてその上に一対の阿伽獅子が向かい合わせに天をにらんでいる。大正十四年の奉納による石の阿伽獅子である。これを過ぎた右手に屋根かこいの御手洗石が置かれているが、ここはもとと水垢離場で、ここから湧き出る泉の水は涸れたことがなかったという伝説が聞かれる。また御手洗石の傍らに、鉄柵を張りめぐらせた巨大な宝篋印塔が楠の大木を背にして建てられているが、これは元文三年(一七三八)三月造塔の供養塔で、もと本堂裏の竹林の中に建立されていたが、昭和五十三年現在地に移されたものである。

 また参道の左手には、昭和十五年再興記念と記された大きな台石があるが、なにの台石であったかは不明である。そしてこの台石の上には天保八年(一八三七)と安政三年(一八五六)在銘の石の常夜燈が置かれている。さて正面は不動堂の本堂であるが、真大山大聖寺の由来格式からみると、決してその偉容を誇る大きな構えとはいえない。これは明治二十八年の火災後おそらく仮の本堂として再建されたとみられるが、本建築が施工されないまま大正十二年の関東震災に倒壊、同十四年資金の関係から倒壊した建築資材を使って再建されたといういきさつがある。なお本堂の表壁には幾多の絵馬や額が掲げられているが、このなかに大正十五年大相模村馬持連中四〇人一同の奉納による三疋の馬の絵が画かれた大絵馬が掲げられている。また本堂の前には直径一メートルほどの鋳鉄の天水桶が置かれているが、これは文化八年(一八一一)江戸堺町横通り菊井氏夫妻、江戸住吉町裏河岸上州屋喜右衛門の奉納によるものであり、当時大相模不動の信仰範囲が江戸にまで及んでいたことが知れる。

 なお本堂に続いた左側の建物は長廊下づたいに大聖寺の庫裏に続いており、右側は大正十四年の建造といわれる太子堂、その前の横道は東門に通じる裏参道である。この参道の両側には、文化六年(一八〇九)の普門品読誦供養塔、享保四年(一七一九)と天保十年(一八三九)の青面金剛像塔、天明五年(一七八五)の文字庚申塔などが立てられてある。このなかに文久二年(一八六二)「是より大さがみふどう」と刻まれた道しるべがある。これはもと日光街道筋登戸の常陽銀行脇にあったものを常陽銀行建設のとき現在地に移したものである。

 これらの石塔に続き、同じ型の文字庚申塔が立ちならんでいる。天保六年の百庚申で一基一基にその造塔者の居住地とその名が記されている。この百庚申はもと太子堂脇の露地を入った元荒川堤防の近くに立てられていたが、関東震災後現在地に移したものといわれ、百基中九七基を教えることができる。百庚申が置かれたもとの場所は、現在新興住宅地になっているが、この住宅に囲まれたなかに天保九年造塔の巨大な百庚申供養塔だけが残されている。その周囲には大きな角石が多数積重ねられているが、これはおそらく焼失前の不動堂舎の礎石であったかもしれない。

 このほか朱塗りの東門の外側には三猿を彫った寛文七年(一六六七)の庚申塔が置かれているが、庚申塔としては越谷では古い頃のものである。現在大聖寺の縁日は例年二月二十八日と九月四日であるが、この日は境内に出店が立ちならび参詣人で賑わう。ことに九月四日は梨市とも呼ばれ、古くから梨の市が立つ縁日としてひろく知られていた。

大聖寺東門参道
百庚申供養塔