百庚申の立ちならぶ東門の参道を出ると、その左隣りは比較的規模の大きな墓地である。ブロック塀に囲まれた墓地の入口を入ると地蔵堂と額がかかった古びた堂舎があるが、人が住んでいるようである。ここはもと大聖寺塔頭寺の一つ安養院の跡である。堂前に念仏講中と庚申講中の寄進による明和元年(一七六四)の宝篋印塔があるが、その他の供養塔はないようである。墓地の規模が大きいだけに墓石の数も少なくないが、このなかに寛永十三年(一六三六)在銘の宝篋印塔墓石なども何基かみられる。
墓地を後にして県道を越ヶ谷方面に進み、大聖寺山門前から五、六十メートルほど行くと火の見櫓がある。この先から右に入った所が大聖寺塔頭寺の一つ利生院跡である。現在十一面観音堂と呼ばれているが無住の古びた堂舎の扉に「十一面観世音菩薩」と記された宝暦八年(一七五八)の棟札が掛けられている。その堂前には万治三年(一六六〇)造塔の六地蔵陽刻塔、元禄十二年(一六九九)の十九夜塔、宝永六年(一七〇九)と享保十七年(一七三二)の六観音陽刻供養塔、宝永七年(一七一〇)の地蔵供養塔、寛政十年(一七九八)、文政元年(一八一八)、嘉永二年(一八四九)の青面金剛庚申塔、文政二年の敷石寄進供養塔、享保九年(一七二四)の地蔵陽刻供養塔などが一列にならべられている。また墓所の入口には延享二年(一七四五)奉納になる宝篋印塔が建てられている。
墓地の中には板碑型(舟型)の古い墓石が多いが、とくに西方村藤塚組世襲名主石塚家の墓所には、元和八年(一六二二)、寛永十六年(一六三九)、同十八年の宝篋印塔墓石をはじめ、慶安・寛文・明暦年号の古い墓石がならんでいる。その他墓地の隅に年号の読みとれない宝篋印塔墓石などがみられ、古い墓地であることが知れる。利生院跡を出て県道を渡ると砂利の小道があるが、ここが大相模不動に通じる古道の一つであった。昔の往来道とはとても思えない野道のような狭い道であるが、この道にそって旧家の表門がつけられているのを見ることができる。