西方山谷の大徳寺

72~75 / 174ページ

原本の該当ページを見る

 やがてこの道は排水路に沿った舗装道に出る。ここを左に折れていくと満々と水をたたえた用水路に突当る。瓦曾根溜井から引水された用水路のうち現在水田灌漑用に使われている用水路としては唯一の八条用水である。この用水路の傍らに青面金剛が刻まれ頭に不動像を戴いた柱状型の石塔が建てられている。武蔵下総馬喰講中によって明和七年(一七七〇)に造塔されたものだが、その左面には「是より左不動尊道」右面には「草加迄二里、越ヶ谷迄十二丁」とあり、大相模不動への道しるべを兼ねた石塔であることが知れる。

 この先の八条用水路にかかる「えんまどう橋」を渡ると、西方村山谷の集落であるが、この橋の袂にかつて庚申塔などの石塔が立てられていた。今日道路の拡幅工事で片付けられたとみられ、用水路際の草むらの中にその頭だけをのぞかせている。なお「えんまどう橋」とは橋の際に閻魔堂があったので名付けられた橋名とみられるが、左手の墓地がその閻魔堂の跡であろう。

 さて西方山谷の集落は江戸時代の開発地で小さな部落であったが、今は宅地造成のはげしい一角でその様相は一変した。それでも道に沿った畑続きの広い屋敷地をもった農家が数軒昔の山谷集落を偲ばせて残っている。少しこの道を進み左手の曲折した道に入って行くと墓地が見える。真言宗宝樹山大徳寺の跡である。『西方村旧記』によると、大徳寺は寛永十年(一六三三)の開基寺で、はじめ大相模大聖寺の門徒に属したが、大聖寺塔頭六寺院のうち、安楽院と薬王寺が古来より嶋(現岩槻市末田)の金剛院門徒であったため、両寺の出入りが絶えなかった。

 そこで両寺話し合いのうえ宝永五年(一七〇八)三月、薬王院と安楽院を大聖寺持ちとする引替えに大徳寺を改めて金剛院門徒に移すことで和談が成立、以来大徳寺は金剛院の門徒に置かれることになった。しかし山谷集落の人びとは、寺院間の本末関係移動に関係なく、長い間村落共同体の心のよりどころとして大徳寺をもり立ててきた。しかし現在は堂舎跡とみられるトタン葺の空屋は荒れ果てたままになっており、その裏はすべて住宅団地に化している。

 山谷集落の先祖の人びとが眠っている墓地の入口には、明和五年(一七六八)の「奉唱光明真言供養塔」と刻まれた大きな柱状型の石塔や、寛政九年(一七九七)と同十一年の青面金剛庚申塔、文化十四年(一八一七)の石橋敷石普請供養塔、それに寛延二年(一七四九)の宝篋印塔などが置かれている。また墓地の中の墓石では西方村山谷組の世襲名主秋山氏の寛延二年在銘の巨大な五輪塔墓石などがみられる。ちなみにこの秋山氏はもと甲斐の武田氏家臣であった瓦曾根秋山孫左衛門長慶家の出自で、長慶から四代光正の子秋山利左衛門康任のとき分地して山谷に居住したといわれる。宝永七年(一七一〇)からの分地で、あるが、代々山谷集落の世襲名主を勤め、明治の初期には戸長などを勤めた家柄である。現在この家はなくなっている。

 大徳寺跡を後にしてもときた道を戻ると、左方ははるか武蔵野線のふもとまで広がる広大な区画整理地が目の前にあらわれる。もとは一面の水田地であったが、十数年前から継続して整地が進められている流通センター用地である。この用地の西端は瓦曾根溜井から引水される東京葛西用水路であるが、この流域の農地はほとんど潰廃されて都市化が進んだため、今は用水の機能は失われている。しかし水の流れは昔と変らず、釣人の集まる釣場の一つになっている。

 この東京葛西用水路に架せられた橋は「ながれ橋」と称されるが、橋を渡った左側の一角は、中央圧延・ワタエイ鉄鋼・太洋産業・千代田製鉄・ワタベペイント・東芝商品販売・大倉商店・大倉倉庫などの工場や倉庫がつらなる工業地域で、武蔵野東線南越谷貨物駅の構内に続いている。

 さてながれ橋の手前から東京葛西用水路に沿った舗装道を右に進むとその対岸に若干の水田地が残されており、昭和五十一年の開校になる鉄筋四階建の西方小学校が建てられているが、この辺りの住宅化も遠いことではなかろう。やがて道は八条用水路と接近し瓦曾根溜井を前にした県道越谷吉川線と合わさる。ここから越谷駅までは約一キロメートル、この瓦曾根西方循環コースの行程はおよそ五キロメートル、大相模大聖寺と瓦曾根溜井を中心とした散策コースである。

西方八条用水際の道しるべ
西方の八条用水
西方大徳寺跡