大相模郷

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 古くは西方・東方・見田方地域(現相模町と大成町の一部)は大相模郷と称され、平安末期から鎌倉時代初期に活躍した武蔵七党のうち野与党の一族大相模次郎能高の根拠地であったようである。この地の東方には荒川(現元荒川)が流れ、この流路に沿って形成された自然堤防上に、比較的早い時期から集落が造成されたが、ここには天平勝宝二年(七五〇)の創立を伝える大相模の不動院(現大聖寺)などがある。

 また荒川乱流時の名残りとみられる半円形の徴高地(東方・見田方の集落)には、大相模次郎能高の館跡や、その近くに古墳後期から古代にかけての住居跡見田方遺跡などがある。そしてその後背湿地は一大水田地で、江戸時代には穀倉地帯として注目されたところである。現在新興住宅の進出で、その一部は都市化の進んだ所もあるが、まだ広々とした水田が一望に広がる地域である。

 なお当地域は、明治二十二年の町村制の際同じく元荒川流域(現中川)の南百・四条・別府・千疋(現東町)の各村と合体し大相模村を構成した。その後昭和二十九年町村合併促進法にもとづき越ヶ谷町などと合併、越谷町の一部になったが、今でも行政的には大相模地区と称され地域区分の一単位になっている。さてこの元荒川通り大相模コースその(一)は、西方大聖寺を境にして西方・東方・見田方・飯島の元荒川づたいの散策コースである。