越谷駅から吉川行きのバスに乗り、不動尊前で下車、不動尊山門の先から道を左に折れて進むと元荒川に架せられた橋にでる。不動橋と称され昭和三十二年の架設である。これは同年大相模と増林を合わせた越谷でははじめての統合中学東中学校が元荒川増林側の河川敷に建設されたとき、通学児童の便宜をはかって架せられたものである。それまでは固定された橋はなかったが、とくに大相模不動尊の縁日には、参詣客のために仮の舟橋が架せられた。そして平日は渡し舟で往来の人の便をはかっていたという。
この橋の手前、樹木の生い茂る一角に一筋の道が通じている。これが屋敷林に囲まれた農家の屋敷裏を通る元荒川堤防上の古道である。この道に入った角の右手、草葺の屋根が見える家の傍らに、屋敷神を祀ったとみられる祠が目につく、屋敷神の祠には違いないが、かつては「おしゃもじさん」と称され、魔除けの神として人びとの信仰を集めた祠であり、祠の下にはかつて奉納されたおしゃもじが、山と積まれたままになっている。この神体は実は嘉暦三年(一三二八)と元弘三年(一三三三)在銘の二基の青石塔婆である。このほかこの辺りの農家の屋敷神にはこうした青石塔婆を祀っている家が多いといわれ、古い集落であることを物語っている。
木立の茂みを抜け右も左も畑地の道をしばらく行くと、道はこんもりとした一叢の杉林の中に入る。その右手は西方村(現相模町)の鎮守日枝神社である。『新編武蔵』によると、この日枝神社は山王社と称され、もと大社で、東光院・利生院・神王院・安楽院・薬王院・観音寺の六寺院を配下に置いていたという。その後江戸時代には山王社付属の寺院のうち、利生院・安楽院・薬王院・観音寺がいづれも真大山大聖寺の塔頭に移されたが、あるいはこの山王社が古くは大相模不動院の別当社であったことも考えられる。しかし徳川氏の宗教政策により、山王社は不動院と切離され単に西方村の鎮守社に位置づけられたとみられないことはない。
参道は大相模不動の東門に通じる舗装新道の木の鳥居からはじまり神殿までおよそ一〇〇メートルほど、参道の両側には一〇株ほどの松の木そのほか杉などが植えられており、明治七年建立の幟立て、そして天保十年(一八三九)の御神燈が一対笠が落ちたまま道の傍らに置かれている。この先に参道を横切るように舗装された道があり、この道を画して石の柵が立てられ花崗岩の二の鳥居が建っている。鳥居をくぐると境内地で、嘉永元年(一八四八)の御手洗石や、その四隅をあたかも猿がこれを荷なっている形の嘉永六年奉納になる御手洗石などが置かれている。
正面の一段高い地所に奥殿をそなえた銅葺の荘厳な構えをした神殿が杉木立を背にして建っているが、この神殿前の石段の両側に愛嬌たっぷりな猿の石像が熊笹の間から参詣者を迎えている。続いて神殿の前には文政十年(一八二七)在銘の御神燈などがみられるが、このほかの御神燈や阿迦獅子の奉納年代は年号銘がなく不明である。また神殿の左手には、おそらく常夜燈の台石ともみられる安政四年(一八五七)の「氏子中」と刻まれた角石や「真大山西方東方筆子中」と刻まれた石が、くづれ落ちた笠石などと共に倒れており、境内の手入れはかならずしもよいとはいえないが、この神域には樹木が多く、神殿も古式にそった建造物で、荘厳な感じを残している神社の一つである。このほか神社の傍らの畑地に数基の五輪塔墓石がある。おそらく日枝社の神官を兼ねた修験僧の墓石ともみられるが未調査のため不明である。